今日吾が国に行はれて居る三大宗教、即ち仏教基督教並に神道に於て、男女両性に関する看方如何と云ふならば、それは各々大に相違して居ると申さう。請ふ看玉へ!仏教は元来戒律太だ厳重で、男女間の関係は極めて粛然たるものに為ようとして居たらしい。在家一般の五戒には、只邪淫を禁ずる丈けで、固より結婚を止めては居ないが、僧尼になるとそれが許されず一生不犯であり不被犯であって、只管清浄無垢たまことを期して居た。併しそんな不人情不自然な外律的禁戒は、固より人間内面から熾に燃え上がる煩悩の性欲を抑圧することは出来ない筈で、実は釈尊在世の当時から早く種々破戒の者が続出した様だが、追々降って末法澆季の世の中と成っては、真に清僧とも謂ふべきは、恐らく寥々晨星の如きものに成つて居たらう。否彼等僧侶の中には又夙に聞くも忌まはしい鶏姦が一般に俗を為して居た様で、それは殆ど天下晴れて誰憚らず行って居たらしい。此の際に於て真宗の開山親鸞が肉食妻帯の宗旨を創勝したのは、遉に烱眼卓見誰人も敬服すべきであって、終に明治維新後は政府は之れを各宗各派にも認許して敢て咎めない事と成った。それが今尚ほ兎角遠慮がちに見えるのは、畢竟古来習慣の容易に抜け難きものがあるやうで、無意味の事である。内密に同棲せんよりは一日も早く公然結婚して人倫を完備されたい。
然り敢へて人倫完備と言はう。今日世上開けたと謂はれ分かったと謂はれる側の人々でも、矢張り所謂清僧を高尚とし、女犯は汚俗の様に考へて居るから困る。若し理屈の上かち断ずるとなれば、僧尼の結婚は確に堕落でなく向上であると看なければならぬ。言ふこゝろは、凡そ草木国土悉皆仏性と曰ひながら、金石には素より陰陽はなく夫婦はない。偶々あったらばそれは類似に由る形容であらう。草木には雌雄はある、併し夫婦はない。連理の松とか相生の松とかいふのは、又形容の辞に過ぎぬ。魚鳥より哺乳動物と次第々々に進化の階段の昇り行く儘に、両性関係が稍々永続的と成り、益々親密と成ることを認められるが、それにしても彼等下等動物間には未だ夫婦結婚はあるまい。其のこれあるは吾儕万物の霊長たる人間に始まると云へば今日僧尼の結婚漸く風を為さんとするのは、やがて彼等が木石乃至禽獣の件を脱して、人間並に成ると謂へる。是れ道徳倫理の進歩にあらずして何ぞと喝破するのが、斯く申す拙者谷本流の一本槍である。それにしても親鸞開基の真宗僧侶に、未だ一夫一妻の制戒はなく、特に其の血統を引いて居ると誇称する両本願寺代々の法主などに、此の方面に於ける濫行者の多々あるのは片腹痛い。
基督教は少くも両性間の道徳問題では、仏教よりは遥に進んで居ると謂へる。尤も此れ亦昔より羅馬旧教の方では所謂僧侶生活の戒律頗る厳粛なるものがあって、何はさて措き男女共に一生不犯不被犯の童貞的独身を強制したからである。併しそれさへ実際は種々淫靡な関係の随時随所に存立した事はボカシオの「デカメロン」などに最も面白く写され居る。現代ではゾラにも固より色々の自然主義的描写がある。古来羅馬法王は男子に限られた筈だのに、何時であつたか女子の変装して法王の位に据ゑられたのがあつて、一日行啓の途中急に産気づいて路傍で分娩したと云ふ、法王御産の石の遺跡が、バチカンから程遠からぬ所に今尚ほあるから珍であらう。従って近世史の劈頭第一にマルチン・ルーテルが尼寺から意中の婦人を●み出して、此処に基督教僧侶妻帯の新教を開いたのは、我が親鸞と東西一対の美譚たる上に、更に其一夫一妻を厳重に掟する所は一層有難い。然かも又過ぎたるは猶ほ及ばざるが如しで、彼の宗の牧師や宣教師などの中には、毎々妻女を色蒼ざめさせて、所謂婦人病に苦ましめる者が多いとやら。そこになると我が国有の神道は例の生々主義で、誠に気楽なものである。