弐(神道が一夫多妻主義である事は)

神道が一夫多妻主義である事は、夫の大己貴命に到処妻妾の婚媾するものがあって。何でも総計では百人に垂々たりといふ有様であったのでも分からう。成る程それでなくては国土の大経営は出来なかったかも知れぬ。自分は先年招請に由って紀州熊野に遊び、一日新宮町の官幣大社速玉神社に詣でて、その実物を拝観したが、中に中世紀に於ける別当の系図様の一巻があるのを繙いたところが、それぞれ男子何人女子何人と記した外に、此外雑多不レ可レ数といふ風に註したのを見た。卑見では所謂男子女子は嫡子乃至庶子で、雑多とはそれ以外粗製濫造の私生児様のものだらうと思はれ、一同相顧みて大笑をした。何でも近頃夫の大本教と本家争ひをした、丹波綾部の旧藩主九鬼子爵は、這の熊野別当から出たらしい。とにかく彼の別当は素より坊主ではあるが、清僧ではない。寧ろ山伏修験に近いものであったらう。否更に一歩を進めて考へると、日本古来の大社の祭神などには、実は一夫数妻のポリアンドリーらしき所も少くない。二三の陽神に配するに、一陰神を以てし、漠然姫神といふ名で祀ってあるのは、旧説は暫く擱き、新に斯う見ると頗る面白く感ずるかも知れない。

支那では神祗に妻あり妾あり、一夫多妻の世相を反映してゐることは、近頃台湾辺に行った人は誰も承知であらう。印度の古宗教は遉に熱帯国の習と謂はうか。男女の情合を頗る猛烈に象徴化したものが多い。延いて喇嘛教より我が真言密教にも亦内実は●(遥の旁に女偏)靡極まるものが沢山にある。真言宗で最も尊重する「般若理趣経」などは、男女の愛欲生殖欲を推し拡めて、天地万物の生々化育に説き及ぼしたもので、南北朝頃一時盛に流行した立川流などは、全然性欲基礎に立つたと謂へる。大聖歓喜天即ち聖天なども、御本尊は大抵秘仏にしてあるから好い様なものゝ、著し公然暴露したならば、風俗壊乱の咎は免れまい。尚ほ淨土門で弥陀三尊と称するものは、中央の阿弥陀如来は中性らしく見えるが、左右両脇の観音と勢至とは、陰陽配偶に違ひなからう。不動明王の脇侍の矜羯羅、制●(なたのた)迦両童子は、又例の性欲倒錯の御相手ではなからうか?

そこで基腎教の方はどうかと云ふと、上帝は固より性別超越の唯一独神と看るべきであらうが、天父と謂へば男性の面影は歴然たるものがある。若夫れ猶太固有のエホバは固より男性であり、且又一夫多妻であったらうと想像される。エホバ妻帯の証拠はないが、猶太社会の状態より推測すると、さう言へないこともなからう。神が人々造るのではなく、人が神を造るのだとは、既に言ひ陳るした事だが、夫のカール・マ-クスなども亦、神の世界は実に人間社会の反映に外ならない事を主張して居る。何はともあれ此のエホバの神が極めて嫉妬深く悋気深い神である事は、之れをモーぜの十戒第一に徴しても自ら明瞭である。自分は基督教の一神主義は勿論、その道徳倫理が一夫一妻を高調することは、何となく此のエホバの嫉妬悋気に淵源して居るらしいのでをかしく成る。

右陳ぶる処は尋常一般の見解とは大分勝手が違って居る様だが、総じて従来の神話を説明するに言語を本とするか、さなくば自然崇拝を種とした様で、所謂太陽神話とて釈迦も阿弥陀も乃至基督さへも、只是れ太陽を人格化したものだとした類が多い。然も近頃は又別に性的研究に基づいて陰陽両性から宗教一切の事象を説明せんとする傾向が著しく成りつゝある。我が伊弉諾、伊弉册二尊の、国土創造神話の如きは暫く申さないとしても、恰も是れと符節を合せた如き話が、台湾紅頭峡の阿眉族の中にも現存して居るのを見ると思半に過ぎよう。二尊婚媾の古伝は如何にも露骨に書いてあるが、天浮橋も天瓊矛も大海原もさては矛先の潮滴もおのころ島も皆何を象徴するか大人には誰でも自づと分かる筈だ。天孫降臨以来おなじみの猿田彦命と天鈿女命と一凸一凹に、生殖器崇拝の名残りがあると云ふはまだしも、夫の仏具の鈴や棒、さては禅家独特の托鉢や如意に迄も、陰陽具象の説明を下さうとするのは過ぎたりと看よう。