参(そこで自分の観る所では、我が国今日)

そこで自分の観る所では、我が国今日の雛祭は実に雛祭と雛遊と相兼ねたもので、雛遊としては「源氏物語」などにある上流社会の児女の遊戯より、其の系統を引いて居り、全く京都公家の高貴なる生活を写したもので、現に内裏雛と謂ひ、その最も具備したものは紫宸殿を飾り立て、左近右近の橘桜をも階前に植ゑ、衛士あり官女あり仕丁あり、五人囃あり、謡曲の舞の人形さへあつて、調度万端皆是れ殿上人のものである。併し主人公の夫婦雛をば、実は未だ曾て畏くも天皇々后といふ風には看奉らなかつた様で、只親王雛と呼んで居る。それは「源氏」の中の光氏などの格と看ても妨げあるまい。それとも憚つて親王と呼ぶので、実は天皇であるのかも知れない。グリツフイスは天皇々后にして居る。俳人子規は又曾て人形天皇と読んだこともある。自分の考へではそこは元来児童の遊びの事だから、初から判然と定つては居ないのであらう。何はともあれ京都高貴の生活を写したるものたることは違はない。然かもそれは啻に公家の家庭にのみ行はれた事ではなく、寧ろ武家即ち徳川将軍家の大奥を初として、諸大名の奥向には格別盛であつたらしい。或は曰はく三月三日に雛祭をする事は、女帝明正天皇の御即位に因み奉つて、寛永六年に国母東福門院の始め玉ふた所であると。果してさうだとすれば、申す迄もなく門院は関東より御人内遊ばされたお方であるから、延いて京都風が江戸の幕府並に諸侯へ伝はつたとも想はれるが、実際は必ずしもそればかりでなく、将軍家初め諸大名の簾中とか奥方とか云ふ側には、公家より帰嫁されたもの多く、従って老女より侍婢り末に至る迄も、頻りに京洛の風を懐慕して措かず、武家貴族もその内庭は早く公家化して居た事は明瞭である。現に雛祭の調度はそれを示して余りあらう。

要するに今日の雛祭の飾り方万端は、徳川幕府時代の後半期に略ぼ定つたものと謂つて好からう。只それで以て尊王の精神を修養するなど云ふ直接の目的は未だ曾て無かつたことで、万一そんな事があつたとしても、それは全く間接の影響に過ぎないことは承知して居らねばなら ぬ。語を変へて曰へば、我が雛祭はやがて皇室尊崇の家庭教育として、国民道徳涵養上に偉大の効果があるなどと云ふのは、それは全く明治維新後の新しい見解であり。昔は只上流高貴の生活を模倣した遊びに外ならなかつた事を屹度注意して置きたい。

否此の新見解にかぶれたものか、数年前京都四条通りの或る大きな雛人形店では、畏くも至尊の大元帥としての御洋服姿か何かを謹●し奉り、御椅子に●らせられ、国母陛下に於かせられても亦御洋装にましまして、その周囲の人も物もすべて最近風尚を写したものを拵へ上げて飾り立てゝあるのを拝見したことがある。此等は特別の註文に由つたのならばイザ知らず、一般の雛祭としては旧来の内裏雛や親王雛に代はるには至らなからうと考へる。一言すれば、昔の雛祭は今の学校や家庭に於ける両陀下御宸影の奉掲とは、自ら訳が違つて居たことを合点して貰ひたいのである。