それにしても又雛祭の壇上には所謂内裏雛なり親王雛の外に、壁雛或は寧ろ紙雛と称するものがある事は誰も承知であらう。これは小さい薄い立て掛ける様に出来た夫婦雛であるが、男雛の方は侍烏帽子に小袖くゝり袴といふ扮装であるに対して、女雛はぐるぐると只錦の切で巻いて、細い帯をさせてあるに過ぎぬ。然かも自分の家などでは幼少の時より、実は内裏雛よりも此の方が大切なものだと云ふ様に教へられて居り、最上段の正中の最奥の所に立て掛ける事にした。将又之と共にはうこさんと呼ぶ極めて素朴の人形も置かれも此の壁雛とはうこさんとは確かに雛祭の人形の宗教的意義を代表するものに属するかの様に想はれる。然かもそれが果して何ものであるかは実は学者間にも古来諸説区々で、今以て何とも一定し兼ねて居る。それにつき過日「大阪朝日」の日曜紙上に文学士の江馬務君が、雛祭の由来に就いて述べられた中に、これは一面は昔の宮咩祭から出て居り、又一面は同じく昔の祓の形代に出て居る様に言はれたのは、ホンの一場の談話らしいが、遉に風俗史専攻の新進英俊だけあつて、頗る要領を得て居るのは感服した。
暫く之れを爾前の旧説に照して見ると、従来も或る学者仲間では日本医薬の祖神少彦名命を祭つたのだといふ説が稍々行はれて居たことを看よう。併し自分の見る所では、それは只小さい……雛鳥の様に小さいと云ふ事に拘泥したもので、外には別に理由がないらしい。さて然らば又宮咩祭とは何かと尋ねると、「古語拾遺」の大宮売神を祭るのだとすると、此の神は後世の内侍の様に天皇の大前に侍つて、常に善言美詞で以て、君臣の間を和げ奉つたとあるが、少々縁遠くはなからうか。或は「姓氏録」か何かを引いて宮能売命は、大物主命の事だとも曰ひ、宮中八神殿では、大宮売命は事代主命の前に在るから、如何にも大物主即ち大己貴命だらうとも曰ひ、足産霊と謂ふのも畢竟大己貴命の事だと曰つて居る。これは同じものでも少彦名命よりは聞える。併し又「拾芥抄」に引いてある宮咩祭文には、宮咩五柱と笠間広前とある。而して所謂五柱は、高御魂神、大宮津彦、大官津姫、大御膳津命、大御膳津姫で、笠間は別に大刀自とある。件の祭文は供献の飯餅酒魚野菜海草類を始め器具までに、悉く一々掛り詞をして、鯛の平けく、鱒の益々といふ風に、原始的なのが頗る面白い。而して其の供膳は成る程豊富を極めたものと見られる。併し之れを祭る趣意は太だ茫漠たるもので、右の祭文には只例の通り夜の守日の守に守らしめ幸へ玉へと申すと結んである。畢竟生命元を祭りた者と看るべきであらうか。尤も其処には又官位の昇進などを祈つた跡もある様だ。
此の宮咩祭は固より三月三日ではない。否それはそれとしてどうも是れだけでは何か物足らない所がある様に感じられんでもない。自分はそれは何神と名を附けやうと構はず、寧ろ貝陰陽神を祭つたもので、夫婦の道を教へ守る神として崇めたのではなからうかと思ふ。伊邪那岐、伊邪那美両尊でも好からうが、暫く高皇産霊神、神皇産霊神と看たらば更に妙かと覚える。何はともあれ陰陽神を祭ると云ふ事は、原始民族の中には却々盛に行はれて居る事は、欧米諸所の土俗博物館等の備品でも徴知される。雛祭は恐らくその名残りの而かも美化したものではあ るまいか。さすればそれが又やがて内裏雛や、親王雛の夫婦雛と不即不離の状態にある所以も分からう。