此の自分の考にも亦少々先蹤がある。「青菜園随筆」に雛は幸の福なり辻の神なり、祓の身代の物にはあらず、男女のすがたをつくり祭るの礼なれば、身の代にはあらず、幸の神として男女幸あるやうにと処女の祀る所であると云つて居るのは、吾が意を得て居る。但しそれと共に又自分はその一面には祓の身代たるところも認めたい。因に此の壁雛と彼の和合神とも何となく似て居る。和合神を寒山拾得と看るなどは大なる僻目で、実は支那の古来の陰陽神崇拝の一現象と考へる。
果して然らばはうこさんはどうだ。是れは却々面倒である様で、何とも急に判定は下されないが、撫物と謂ひ、又一種の形代であることは恐らく違ふまい。はうこは這ふ子なりと云ひ、婢子即ちハウコなりと云ひ、母子なりとも云ひ諸説区々である。而してそれは又あまがつと同じ物とする。あまがつは天児と書きて訓ずるのである。これも却々面倒で分らない。「倭訓栞」には目勝の義で、鈿女命から出て居ると云ひ、「貞丈雑記」にはあめがちごの略なりとし、「嬉遊笑覧」には女母形即ちあまがたなりと解いてある。執れもまだ牽強の譏を免れ難い。「列仙伝」には天児といふがあつて東王公の模像だと云つて居る。天児は天倪と同じと看ても妨げあるまいが、それならば祓の撫物などよりも寧ろ産霊神の方に近いものにならう。それに「雍州府志」に拠ると、元来此の天児は朝鮮の風俗に出て居る様で、昔三韓の帰化人が近江の東阪本附近に住して、駒井氏を称へた。それが京都へ移つて来て、始めて扇子を作り、後ち雛や張子などを製したが、それを禁裡に献上して、代々受領があつたと云つて居る。はうこの語も寧ろ何か古 い朝鮮語かも知れぬ?。
斯んな事を言ふと和学者とか国学家とかいふ手合は、厶ツと腹を立てられる様だが、実際日本固有の国粋の様に言はれて居るものでも、少し立入つてその淵源を探つて見ると、支那や朝鮮さては南洋諸島から系統を引いて居るものは太だ多い。今一々申立てないが、祓は素より神代の昔より日本随一の風俗には相違ないが、若し三月雛祭の壁雛や天児などを祓の形代とし撫物とするとしたならば、それは寧ろ支那の風俗の移しであるから驚かれる。支那人が春先きに水辺で禊を行うて、香草に浴する事は周代からある。尚は鄭の国などでは湊●(さんずいに有)といふ川の畔で蒭霊といふ俑を以て祓をしたらしい。否自分が曾て伯林の人類学博物館で調査した所では、此の身代を以て祓をする事は、ボルネホ島民の中にも、夙に行はれて居た様である。五節句は日本の古風と謂つても実は皆支那の風俗を写したのである。三月の上巳の雛祭も、宮咩祭や何かよりも主として支那起原と謂ふ事が知れると、思半に過ぎやう。因に祇園祭の山車なども、亦支那の広東辺の疫神祭の風である事を、伯林の博物館で観た。