お話が又例の通り冗長に渉つたが、要するに我が国今日の雛祭は詳に解剖すると、児童通有の人形愛玩本能と、原始人通有の陰陽神の崇拝と、さては祓の身代などいふ日本支郎等に南洋諸島通有の迷信と、三因子が混淆して出来、然かも其処に又上流社会が高貴の生活を模倣して遊ぶと云ふ事を馴致し、而してそれと共に所謂まゝ事でお姫さん達にも、早く家事の一端を習はるゝと云ふ意味も含蓄されて来た。但し尊王の心、平たく言へば皇室尊崇てふ国民教育を旨とするなどと云ふ事は、明治維新前は、直接には認め難いといふが、雛祭に就いて自分も予ね て考へて居つた文化的観察の主点である。
併し只それ丈けの事に止まるならば、自分としては敢て貴重なる時間を費して喋々呶々するものがないだらう。即ち自分の主眼とする所は、それよりも之れを将来の児童教育の上に、どう応用すべきかを考へたいので、其処には依然祭てふ宗教的意義をも保存して行くべきか、又只遊びにして仕舞ふか、雛祭か将又雛遊かといふ事は却々大問題であらう。
それに就いて自分の考へる所では、此の雛遊に由つて何となく皇室尊崇の国民教育を施すは至極妙であらう。而してそれは矢張り飽迄も古来の風俗で、崇重にするが好く、之れを直に近世化し去つては、憚りながら大だ詰らなくならうと思ふ。即ちこれはまた一種の宗教的祭の意義を有するものとして、天照皇太神の御裔の末永く天日嗣の高御座にましまして、天壌無窮の宝祚を保たれることを祝福申上げたい。これを雛祭の第一義とする。
併しそれと同時に、何時迄も徒に昔の貴族社会の奢侈なる生活を尊重させる事は、太だ面白くない様にも感じる。即ち天皇祭の古代式なる部分は永く別物として、児童固有の本能に由る人形遊の方は、どうにかして層一層デモクラシーにする工夫を講じたい。我々平民一般に十分近代的文化生活を享有し得ることの出来る途を明にしたい。皇室は我儕国民一同の皇室であつて、其の間に貴族の何のと仲介物の這入らない様にしたい。桃や桜の花盛を好機として、少女達に何か適当の文化生活的家庭の模写的実現を、幼稚園や学校で、相応に大仕掛に試みさせ、少女の手で一定の人々に昼餐でもを供する様にしたならばどんなものだらう。それと共に人形は勿論、子供関係家庭関係の陣列会展寛会を開くなども妙であらう。各自家々での祭は自ら止むかも知れない。
併し更に進んで考へると、目下性の教育の喧しい折柄とすれば、その一助として雛祭の一要素たる陰陽神の崇拝といふ事は、どう云ふ形で以てか存続し、又十分発揮したい。これは須らく各自家庭の祭に委ねる方が穏当かとも思はれる。宮咩祭の復興なども、或は遺り方に由つては妙であらう。固より十分適切しなければならぬ。只祓の身代などと云ふ迷信は、成るべく止めて欲しい。斯くして其処に又文化主義もあり、文化運動にも合しやうと思はれる。