宗教はどうしても、その根本は生産繁殖にある。生産はプロダクションで、繁殖はレプロダクションである。プロダクションは五穀繁昌万物茂生であり、レプロダクションは一家和合子孫繁昌である。両方併せて生々化育と謂ひ、更に約しては造化の妙機とも謂へる。宗教は実に這の造化の妙機を崇敬し、随喜し、祝福する所にその根底はある。然り而してプロダクシヨンの方は、天地自然の崇拝で、レプロダダションの方は性の崇拝生殖器の崇拝と成る様だが、その天地自然の崇拝も亦実は夙に一大生殖作用と看て、之れを象徴化する事が行はれて居る。夫の伊邪那岐伊郡那美の陰陽二神が、犬の浮橋の上に立つて、天の瓊矛を以て、蒼溟を探り玉ひ、その鋒尖の一滴が国土産成の初となつたといふ神話は、確に天地の一大生殖を象徴したものであらう。将又右陰陽二神が鶴鴒の尾を頻りに叩くのを観られて、男女婚媾の方法を教へられたなどいふのは、極めて原始的な生殖神観で、之と類似の話は、台湾紅頭峡の阿眉族の中にもある。それはアボクラヤン、クリブラヤンと云ふ陰陽二神が、ホワークと云ふ鳥の雌雄相駢んで頻りに尾を叩くのを観て、色事を覚えたといふのである。而して諾册二神がやがて其の産成したオ馭慮島の上に降りて、心の柱を廻つて契られたと云ふ、此の柱に何だかフアリシズムの名残がある様に想はれてならぬ。埃及ではマウ少し露骨に天は男神であり、地は女神であつて、其の覆載する所は正しく、男女上下婚媾の貌であると謂つて、壁絵に書いたのが残つて居る。

夫の基督教の贖罪の象徴の様に謂つて居る十字架は、素、埃及の古宗教より伝つたもので、命の樹と称し、死屍と共に埋めて、其の復活を促がすものであつたさうなが、併しその命の樹は何ものかと云はゞ、自分は矢張りこれも亦一種のフアリシズムでなからうかと考へる。薩摩の島津公爵の一族の家紋が丸に十字なのを観て、十字架だとし、最初渡来のジエス教会の徒は大に驚き且つ難有がつたさうなが、アレは十字架でも何でもない、全く轡に外ならぬと信ずるが、それにしても、仏教徒の珍重する卍字が十字である事は想像に難くない。即ちそれは又やがてフアリシズムであらう。転輪王といふアノ輪は通例は太陽から出て居るなどと云ふらしいが矢張り卍字から構成したもので、フアリシズムと見れば見られやう。鋒とか杵とか鈷とか乃至如意とかも亦皆フアリシズムである事は、自分は夙に詳細の研究を発表し、終に我が公卿や神官等の手に持つ笏も亦然りと謂つて置いた。本書如意考を看よ、否更に一歩を進めて言へば、神道の方では猿田彦命と天鈿女命とが陰陽の象徴であるらしく、仏教の道具では木魚と棒、鍾と棒、鉢と杖にも男女陰陽の生殖器たる痕跡が認められる様に思はれてならない。但しこれは秘中の秘である。