右縷陳した所を謂むだ人は、或は異議を挿んで、斯んな説明は、俗神道の様な総じて原始的色彩の濃厚な宗教には至極甘い工合に、適合するか知らんが、仏教とか基督教とか既に大に進歩したものにはどうか知らないと云ふかも知れぬ。併し自分は所謂高尚な宗教も亦当初は、其処に胚胎したに違ひない、それを追々理性が勝つて、強ひて圧迫しやうと浄化しやうとして、種々の説明もあり議論もあり教議もある様になり、又更に別途に出ては、寧ろ倫理道徳を尊重して、人間自然の欲求を兎角無視しようとする。仏教は理性の方で、基督教は道徳の方である。併し純理性の仏教は固より到底一般の熱烈なる信仰は受けられまい。倶舍、三論、成実、法相乃至華厳さへも亦然りであらう。否奈良仏教を観ても、此等経論の理性的研究はさて置き、玄昉ぢやの道鏡ぢやの、色仕掛の妖僧輩が跋扈したのは何故であるか、基督教も新教はさうでもないが、旧教は却々生産繁殖の奨励に骨を折つて居るらしい。昔の修道院で貧窮で独身な厳粛生活を実行した清僧は、いざ知らず、旧教の僧侶は皆却々能く食ひ能く飲み、而かも例の初夜権の様な抜け途さへあつたらしい。新教の清教徒は今尚は禁酒の廃娼のと、野暮臭い事を言つて居るが、欧米実際社会は、基督教団と謂つても、固より決してそんなに窮屈千万なものではないと見たは僻目だらうか。
否印度で仏教を開いた釈迦も亦或は夫婦喧嘩家内不和から、嫌気がさして出家遁世したこと恰も夫の苅萱道心の様なものでなからうかとは、偶々釈迦に正妻耶輪陀羅女の外に、二人の妾があつたと云ふ説から推論して、既に或る雑誌の六月号に書いて置いた所が、其の後「大朝」の広告を見ると芳川赴とかいふ人の新著で「釈迦及仏徒の女難」といふ本が、東京神田の学芸書院から出版になって居るらしい。それにしても仏教が兎角人間自然の欲求を無視する所は、その印度に於て爾く速に衰微した所以で、婆羅門教や印度教の流行は無理からぬ事であらう。否我が国でも真言宗が益々繁昌し、弘法大師が大に流行するに反して、天台宗がとんと振はず、伝教大師は終に国定の小学校用歴史教科書から削除せられたなどといふのも、真言宗には別して「理趣経」の様な婆羅門教的な、印度教的な、女神崇拝的な、食気と色気と、生産と繁殖とを具備したものがあり、それに伴生して色々不思議千万の秘法があるからであらう。何も「顕密二教論」や「三教指帰」や、さては「十住心論」ばかりで以て真言宗が昇降した訳ではあるまい(?)
若夫れ浄土門は、此の土では人間欲求の悉皆満足を望み難いとして、それを来世の所謂極楽淨土に転向した迄で、「阿弥陀経」は勿論「大無量寿経」の説相は如何にも物質的である。尤も色気の方は如何と難ぜられるか知らんが、自分は「観無量寿経」の韋提希夫人をへロインにした所に、多大の妙味を感ぜざるを得ない。勝鬘夫人では理智に偏して、駄目だらう哩。知らず今後いつ迄もそんな原始的な伝統的な見解で満足して居るかどうか。自分は将来の宗教は何はさて措き、所謂民衆文化運動と歩調を合せて、別して労動問題並に婦人問題に十分留意したものでなくてはならないとする。是れ蓋し又新しいプロダクションとレプロダクションの看方であらう。尚ほ拙著『道徳革新論』第五章迷信破却の一段を参考して貰ひたいものである。