当時は酷暑の砌であれば、管々しい考証はわざと憚つて遠慮したが、抑々この七夕祭と謂つぱ素は全く漢土伝来のものたる事、猶ほ他の諸節句と同じであると断定しよう。尤もタナバタといふ名詞は、我が国にも古くからある様で、倒へば「古事記」の神代の巻にも、早く阿米那流夜・游登多那婆多能の云々といふ詠歌があって、アノナルヤ・オトタナバタノと訓じて居る。併し実際此の「古事記」にある昔の歌なども、果して何時のものか、よくは分らない。今の「古事記」はとにかく奈良朝に出来たものだとすると、既に朝鮮は勿論、支那大陸との交通も開けて、隋唐の文明は続々此の東海の島国に注入せられて居たことを思はなければならぬ。『古語拾遺』に令三天棚機姫神織二神衣一とある一句などは、別に重く視るに及ぶまい。況して「万葉集」の棚機津女などは敢て喋々するに及ばなからう。支那で這の祭の始は、一説には唐の玄宗皇帝の時だと云ふ様たが、実際はそれよりはズツと古い。漢の劉?(キン)の「西京雑記」に早く見えて居るとすると、固より頗る古い風俗らしいが、その我が国に伝ったのは天平勝宝七年頃と云ふけれども、それは余り当てにならず、マウ少し古い。何はともあれ牽牛織女に当てるに牛飼男へ棚機津女を以てするは、只漢語和訓に過ぎぬ。支那大陸の風俗伝授以前に、我が国にも亦夙に牛飼男や棚機津女を祭るの習慣があったかどうかは、暫く疑問として置かう。

さて然らば又支那に於ける此の七夕祭の起源は如何と云ふと、それは一面は、例の天体崇拝で比較的に早く天文占星術などの開けた彼の国では、晩夏初秋の夜天を仰いで、銀河の東西に相対した明煌々たる二大星の位置に就いては、崇敬の目を以て視ずには居られなかった。子供でさへ教へられると直ぐに気が附く様である。而してそれを原始時代に於て、人民稍々其の堵に安んじ、男女婚媾して家庭を作り、夫婦相互に其の業を分りて、生活の基を定めた頃、耕と織との二大業務を尊重した事の、代表的象徴とも視、又保護神と仰いだと看る事も、当然の順序と謂はなければならぬ。否支那では今も尚ほ耕織本位で、農民が社会の根柢となって居る事は毫も違はない。夫の有名な耕織図は実に古今通じて支那の男女の教訓の典型である。即ち此の七夕祭は固より決して牧畜漁猟を本業とした遊牧時代のものでない事は明暸であらう。

それにしても牽牛織女は素是れ伉儷の夫婦でありながら、只一年一度の契合とは如何にも妙だと難ずるものがあるのは、無理はムらぬ。乃ち古伝説では男女日夜恋愛に耽るを、天帝が堅く戒めて引き分けたのだと云ふらしいが、そんな道徳訓めいた事は、恐らく後世の付会に過ぎまい。自分はそれよりも、其処に何となく古のエキソガミー即ち同性同族外より嫁娶し、而して最初は寧ろ夫たる者が婦の家に通ったと云ふ、ギツヂングス氏の社会学上でコロンボ辺の土語を借つて、、ピーナ式婚姻と呼ぶ方が、普通であった事の痕跡を朧気ながら存して属るのだと看たいが、どんなものだらう。