話頭一転して祇園祭の方に入らう。申す迄もなく祇園社なるものは今日は、八阪神社と改称したと謂っても妨げなく、堂々たる官幣大社に昇格さへして、社頭は益々御繁昌である。而して其の祭神を尋ねると、素盞鳴尊並にその御眷属だと云ふことで、純粋に日本古神道の神祇らしい。併し少しく立ち入つてその鎮座の由来を調べて見ると、その始は全く牛頭天王を祀つたに相違なく、それは仏教の方に属する天竺の神で、その社も亦感神院といふ寺の中に在つた訳である。夫の有名なる枝垂桜は、現に感神院庭前の老木であつたことは、年寄りの方々は誰も御承知であらう。その天竺の神が倒の両部習合から何時となく素盞鳴尊と本迹の関係を生じ、而かも檐を貸して主屋を取られた諺通り、明治維新初期の排仏毀釈で、終に全く素盞鳴尊そのものに成つて仕舞つた訳であるから面自い。斯くして既に素盞鳴尊に成つて仕舞つたとしても、恐らく誰も素盞嗚尊は畏くも天祖天照皇太神宮の御弟に座して云々といふ国体神道で、今日盛に社参して居る者はなからう。将又それが記紀二典に昨に伝へられた様な荒振る大神にしますと云ふ事で、その荒御魂をでも鎮み奉らうと当初齋き祀つたものとも考へまい。有り体に言ふと、是れは全く昔疫癘流什の折柄、之れを免れんとて、件の天竺の蕃神たる牛頭天王を勧請した事は旧伝明暸にして掩ひ難い。それは何でも最初天平年間に吉備朝臣真備が、帰朝の際に播磨の飾磨郡と白幣山辺に祀ったのが初めで、それを貞観十八年に天台僧の円如といふが、京都へ迎へたのである。而して翌元慶元年に藤原基経が大檀那となって立派に社頭が営まれたと伝へて居る。尤も播州の方ではその後、天禄三年に、今の広峯神社の地に移した。これは何でも最初牛頭天王出現の場所ぢやさうな。而して祇園祭も亦同じ天禄元年に始つたと云ひ、或は僅に五年だけ後れて、天延三年に始つたとも云はれて居る。大体今年までに千五十年程に成る古いものだ。
此に於て自分は何となく右の貞観とか、天禄天延とか云ふ年号の時代を回顧して看たならば、播州や京都への鎮座の理由は勿論、別して祗園祭開始の由来も分らうと考へた。而してそれは端なく疫癘の流行と最も密に関係のあることを発見するに、毫も面倒はかゝらない。否極々初に牛頭天王の播州へ勧請された訳も亦同一理由で解けるらしいから難有からう。疫癘といふのは主として疱瘡の事であつた。疫瘡赤斑瘡などとも書かれてある。その外に咳逆といふのがある。それは多分百日咳か何か、而かもそれが変じて肺炎なり肋膜炎になつたものと看られる。定めて富士川博士などの手で、早く十分調べられて居よう。今偶々座右に博士の著書がないから描く。