疱瘡は素印度地方に起ったものたさうで、それが支那朝鮮を経て早く我が国へも伝染して来たらしい。それは天平年間たと云ふが、これ亦マウ少し先きからかも知れない。貞観の初頃には、非常に激しく蔓延した事は、同五年に始めて神泉苑で、御霊祭をした時の記事が、詳細に「三代実録」に載つて居るので知れる。御霊祭といふ所以は、斯く近年頻りに疫癘の流行するのは、早良親王とか、伊予親王母了とか、藤原広嗣、橘逸勢、文室吉田麿など、孰れも近い頃に事に坐して誅せられたもの、寃魂が祟りを為すのだと看たからで、洛中に上と下との御霊社も建てられ、後には菅原道真外一座をさへ合祀された様な次第だが、祇園祭も最初は又御霊会と呼んで居たので、因縁明暸であらうではないか。尤も此の方は御霊そのものを齋き祀つたのではない、「天刑星秘密儀軌」といふ不空三蔵訳と伝へた経文に、牛頭天王は、縛繋癘鬼、禳除疫難とあるから、神力呪力で寧ろ御霊を押へやうとしたのであらう。その後未だ幾ならず、正暦五年に疫神を船岡山に祀り、やがて紫野に移し、夫の今宮が建立されたのも亦疱瘡流行の為で、これは御霊の祟りばかりではないと看たのであらう。
ところで段々調べて行くと、牛頭天王といふものは真言密教の金胎両界の曼陀羅には収められて居ない。又同天王に関した前掲の「天刑星秘密儀軌」や、同じく義浄三蔵訳と伝ふる「仏説秘密心点如意蔵王陀羅尼経」は共に、全く偽経であると云ふ事に成って居る。それに夫の「●●内伝」とて吉備真備の作といふものも、固より頗る怪しくて信用すべきものでない。さうすると牛頭天王そのものが実は太だ変挺なもので、素盞鳴尊云々も亦極めて根柢が薄弱と成って来る。但しこれは独り八阪神社に限らない。否淫祠邪教ばかりか、堂々たる官国幣社府県郷村の有格社にも多々あるからをかしからう。夫の巨旦将来蘇民将来の伝説なども、素盞鳴尊が南海に赴かれた時の事とし、或は朝鮮地方の神話だらうと云ふ説もあるが、又牛頭天王に係けて印度の事とするのもある。巨旦は恐らく固有名詞でなく、長者とか大檀那とか云ふ事で、蘇民は又何となくシャマンと似通ひ、僧官祭司呪術師を兼ねた様な族輩の事かと想はれる。それにしても将来とは何か未だ考へない。大方識者の垂教を乞ひたい。茅輪などの迷信は各処の蛮地にある。他日詳論しよう。
そこで祇園祭の賑な訳も亦推察に難くない。何でも最初は専ら賀茂祭に准じて行はれた様だが、寃魂を慰め、疫神を鎮めるとしては一層陽気でなくてはならず、都鄙の士庶一般に大浮かれた事は、今宮のやすらひ祭に徴しても知れる。夫の壬生狂言なども亦恐らくそれに系統を引かう。前掲「三代実録」の御霊会の記事を観ても思半に過ぎよう。而して自分はどうしても其処に又一種の性欲興奮を必要条件としたと見たは決して僻目ではあるまい。尤も祇園祭の山鉾の様な高大な飾車を引き廻ることは、広東辺の風俗を真似たらしい。九州博多のも田舎ながら却却大規模である。而して鉾は陽物、山は陰門を象徴したと看ると愈々面白くなつて来る。否牛頭天王の名亦男根崇拝を連想せしめよう。