大黒と謂へば七福神中での随一で、今尚ほ坊間では最も盛に崇信されてゐる様に看受けられる。従つてこれに就いて色々と考証したり説を立てたりしたものは、昔から随分沢山にある様で、それは夫の物集博士編纂の「広文庫」などを繙いたならば、容易に窺ひ知ることも出来よう。併し其処には実際格別名論卓説がありとも覚えない。さて又近頃に及んで学者諸先生の中にも、往々これを論弁せられた方もある様だが、自分の管見では、先づ芳賀博士が令を距る拾数年前に、雑誌「帝国文学」か何かで、主として専門の国文学上より推究して、所謂七福神の今の様に成立したのは、足利氏の室町時代頃からであるといふ風に断定せられたのなどを挙げよう。その後松本吉二郎博士にも亦大黒天考一篇がある。それは明治四十三年末の執筆で雑誌「芸文」に掲載されたものと思ふが、同博士著の「仏典の研究」中に収められてゐるから、直ぐ分かる。それは例に依つて却々考証該博綿密なものであるが、結局は大黒天を倶吠羅と同一視して、始めてその種々の性相を説明し得ると云ふのである。これは大に吾が意を得てゐるもので、次ぎに更に委しく引用するところがあらう。

否それよりも這の問題で最も詳密なものは文学士長沼賢海氏の考証である。同氏は斯かる神仏の考証ものには頗る長じてゐられる様で、嘗て親鸞聖人の伝記に関して、太だ奇抜にして而も用意周到なものあり、早く雷名を轟かされた様だが、その後確か蓮如上人の事跡に就いても考証せられ、菅原天神崇拝の沿革に関しても、非常に卓見を発表された様に記憶する。然もその最も力を入れたものは、全く這の夷大黒の研究であると謂つても妨げあるまい。それは最初大正四年の十月頃から翌五年の四月に亙つて「史学雑誌」に連載したものである。但しそれは主としてゑひす即も戒に就いて考証せられたもので、先づ夫の広田の末社たる西宮の夷の上に、その意を注がれて博引旁捜して漏らさず、終に之れよりして、夷神の何たるかを略究明し得られた様だと云へる。尤も同学士は当時は「大日本仏教全書」の出版が未だ完了しなかつた為に、参考書に於て不足するところがあつたからとて、その後四五年を経過して、更に大黒天及夷神再考なる長篇を起草せられ、同じく「史学雑誌」の大正九年三月以後に月を累ねて續載されてるるから愈面白い。

然り而して又これと共に喜田博士が雑誌「歴史地理」並に「民族と歴史」に数々掲載せられた論文、別して特に七福神考をば数年前に増刊せられたなども尊重しなければならぬ。但し長沼学士の再考には、此等の喜田博士の考証には往々批判を加へてゐるのを見たが、松本博士の方のは、或は未見の故か一つも言つてないらしい様だ?