偖世間在来の説では、夷神の吾が日本国の神祗たることは勿論、大黒天も亦やがて吾が大国主命即ち大己貴命に似てゐるところがあるとして、これを同一視して居り、大黒は大国と字音さへも相通だとしてゐる。而して大黒既に大己貴命たるところからして、又夷の方は事代主命といふ事に成つてゐる。但し斯かる考へ方は遙に後世のもので、無論室町時代以前にはないだらう。
何はともあれ大黒天は素より天部で、印度の神祇たることは議論の余地はない。それが始めて吾が国へ伝へられたのは、伝教大師の手で叡山に祀つたのにあると云ふことに、衆説略ほ一致してゐるらしいが、或は又弘法大師に繋けて看やうとするものもないでもない。蓋し伝教弘法孰れの手で紹介されたにもせよ、大黒天が仏教密部の所属であることは変らない。只それが密部でどうなつてゐるか、疑問は其処にある。
一体に吾が国でこの大黒天の事を言ふものは、皆夫の「大黒天神法」に拠る様である。これは旧来伝へて唐朝の頃嘉祥寺の神愷が書いたのだといふことになつてゐる。併しそれは偽作で、確に吾が国で拵へたに相違ない。それは文中に頭に烏帽子を冠らしめとか、狩衣を着せしめとかあるので分かる。烏帽子や狩衣が支那にあつては溜らない。否吾が国でも奈良の昔にはなく、早きも平安朝の末季より前ではない様に思ふと、大方その製作の年代は推知されやう。尤も文中引くところの諸経文や疏釈の類には、遉に大した間違はない様だから、固より然るべき僧侶の手に成つたとは明である。而してそれを受けて「覚禅抄」や「阿娑縛抄」などには一層詳に色色の事が書かれてゐる。そこで一応這の大黒天の事の載つてゐる諸経文や疏釈類は如何なものであるかと調べて見ると、それは「大日経」「仁王経」「三世最勝心明王経」「理趣経」「孔雀経」「大日経疏」「仁王経疏」及び「南海寄帰伝」であり、坊間行はるゝ「仏説摩訶迦羅大黒天神大福徳円満陀羅尼経」や「摩訶迦羅大黒天神所問経」などいふ類は、無論偽経だとせられてゐる。
ところで大黒天に関し、古来一大問題となつてゐるところは何かといふと、それはこの神が素より同一天がありながら、一面には破壊的であり、獰猛であり、残忍であり、乃至戦闘的であるのに拘らず、一面には構成的であり、柔和であり、仁恵であり、乃至平和的であつて、福徳円満などいふのは、如何にも自家撞着の最も甚しいのに驚かれると云ふので、現にその図像さへも判然忿愁相のと円満相のと二型式に大別することが出来る。それは実際は最初から両型共に並び行はれてゐたらしいが、然も初は寧ろ忿怒相のものが主であった様で、而してそれがやがて七福神といふ風に崇められて来てからは、無論只々円満相のものゝみが祀られる様に成つた。但しそれで以て忿懇相のものが漸く一変して円満相のものに化成したのだと考へることは許されまい。