斯くて松本博士は更に一歩を進めて、大黒天既に倶吠羅だとすれば、それは実に毘沙門天と同一神である。将又金比羅神も亦倶吠羅神と看ると、万事よく理解されやうと迄言はれてゐる。議論いよいよ出でて面白いが、今茲には其処までは行かず、自分はそれよりも又寧ろ這の大黒天に性の崇拝が隠見してゐることを述べたい。蓋しすべて福の神と謂ふと、性の崇拝から全然離れたものはない。否性の崇拝は生産繁殖の高調で、共処に福の根基は成るのである。然り而して自分は又夙に這の大黒天を以て一種のフアリシズムと看做し、それに陰茎の象徴があることを認めてゐる者である。彼れが色黒く体肥えて而かも脚は比較的に短く、頭巾を着て立つてゐる姿は他の一物を裏面より見たところと肖てはゐずや。亀頭はやがて頭巾に当るといふのは過言であらうか。将又その持物に就いてこれを見ても、槌を立てゝゐるのは、同じくフアリシズムの象徴であり、打出の子槌といふ俗称にも、子孫繁殖の事は既に暗示されてゐる筈だ。古くは金嚢を手にしてゐるが、これは睾丸に比して見られはせずや。その肩にした袋も亦それである。特に長沼学士の研究では、従来往々にして臼に乗れる大黒像があるらしい。臼が女陰の象徴であるのは今更喋々を要しないとすると、一層面白い。大黒柱の柱の字にも自分は格別に重きを置きたい。出羽地方の地搗歌に、のせかけたやのせかけたや、大黒柱をのせかけた、黄金の花は八重に咲くとあり。出雲地方には石搗歌といつて、大黒柱のみつきとり、これをねつきに、石つきこんで云々といふのがある。これも同学士が色々指摘したのを見たが、本は文部省編纂の健謡集にあるといふからをかしからう。

尚ほ同学士は又寺の梵妻を大黒といふ事に就いても、色々面白い説明を施されてゐられるが、一々引用するに暇ない。これを要するに長沼学士の「史学雑誌」第参拾弐編第五号に掲げられたところは、自分の持説たる大黒天の性的崇拝説には、少からざる材科を供給されたことを有難く感謝したい。併しさればと云つて同学士は、未だ嘗てフアリシズムの事は言はれず、他の諸博士も亦同様で、そこには及ばれてゐない。

そこで自分は大黒天は、たとへ大自在天の化身にしても、将又堅牢地天の化身にしても、共に皆繁殖生産の象徴化であるといふことを特に高調しない訳には行かない。蓋し中古以来今尚ほ印度で盛に崇拝せられてゐる●伐、即ち大自在天は、牡牛を以て象徴し、又男根を以て標識せられてゐるところに目を附けられたい。而かも外道摩醯首羅論師は、三界中の一皆悉く大自在天の所生とし、虚空はその頭、地はその身、水はその尿、山はその糞、一切衆生はその腹中の蟲、風はその命、火はその煖、罪福はその業だとしてゐると聞くと愈々驚かれる。何だか吾が「古事記」の神話などとも似通つたところがある。将又緊牢地天はこれ大地神女なりといふのは、独逸語の所謂ムツターエルデで、大地が万物繁殖の母たることを示し、而かもそれが一転して生殖崇拝と移り行くことは、敢て珍しくはあるまい。鼠も亦強ち北の子の方位から来たばかりでなく、寧ろ繁殖の迅速なのを主としやう。但し西には鼠が性の象徴たることは未だ見当らない。