大正十年た月十七日は、又新義真言宗の開祖興教大師覚鑁上人の降誕会に値遇したので、智山大学勧学院の興風会が発起となり、例に依つて、京都市公社堂に一大講演会を開いた。而して自分も亦その講師の一人たることを懇嘱された。蓋し自分は数年来同大学顧問とし講師として、教職員の末班に列して居るからで、従つて既に興教大師の為には、前後二回も講壇に立つて敢て漫に卑見を開陳したことがある。或は「タゴールより密厳尊者学者」と題し、或は「智者勇者学者」と題したものは、即もそれである。然かも同年は既に三度目のことであるから、稍々方向を転じて、一番目下世上に喧伝する文化といふ事の上から此の真言宗を観て行き、別して興教大師の事に稍々委しく論及する所があらうと考へた。

然り而して真実心理を暴露すると、それには又少くも動機と成り誘囚と成つたものがあるのである。即ち同年二月十一日自分の日頃敬愛する維誌「日本及日本人」は、特に「皇祖追憶号」を発行したが、北上に偶々赤堀又次郎氏の竹越与三郎氏新著「日本経済史」を読みてと云ふ、相応に長い批評文が載つて居るのを見て、フト思ひ付いたのが始である。竹越氏の「日本経済史」が近頃の洪著である事は、誰も文字あるものは夙に新聞紙上の大広告で承知であらう。但し不幸にして自分は未だ其の書籍には逢接はしない。逢接はしないが、曾て同氏の快著「三千年史」を比較的に精読し、終に初度の海外留学の時は行李の底に収めた程だから、十分その長所は早く推察するが、然かも又著者の人物闔歴乃至失敬ながら学殖から考へても、若し此の書に短所なるものがあるとしたならば、それも亦大抵は推断するに難くない。いづれその中適当の機会を得たらば、敢て妄評を試みやうとして居た折柄、図らず赤堀氏の批評に出合つたのである。赤堀氏の博覧にして而かも眼光紙背に徹底するものもあり、それを行るに一種皮肉にして、而かも人の肺腑を刳ぐる様な文を以てするに妙を得て居られる事は、定評がある。赤堀氏に逢つて遉に竹越氏も大に辟易しやう。

さてその中で、赤堀氏は、竹越氏の第壱巻五二六頁以下に於ける自然児清盛の条下に、後白河法皇が畏くも御身を屈し玉ひて、只管清盛の意を迎へんとし、或は厳島神社に行幸遊ばされ或は兵庫福原の清盛の別業に幸臨も玉ひ、或は白ら阿闍梨と称し、僧籍に入つて、世事に意なきことを示されて、清盛の猜疑を免れんとし玉うたといふ風に書いてあるのは、大きに事情が相違して居る、間違でムると喝破し、後白河天皇の深く御信仰遊ばれたのは密教であると高調して、左の通り述ベてある。尤も今茲に載せる所は話の都合で、必ずしも赤堀氏の原文その儘に従写したものではない事を断つて置く。