自分の日頃畏敬する皮肉なる史論家否史評家赤堀又次郎氏は、斯ういふ風に言つて居る。抑抑密教と謂ふは仏教八万四千の法蔵のうちでも、一種特別に、所謂即身成仏の法門を開いたものである。この父母所生の肉体の儘で、而かも此の上で直に仏に成ることが出来ると説くのである。既に斯様に偉大なる功験の炳焉たるものであれば、その他の人間の欲望は、執れも容易く密教に拠つて満足せしめる事が出来ると云ふので、畏くも宇多天皇以後、白河、鳥羽乃至後白河の諸帝が夙に密教を御信仰遊ばされ、終に落飾して法体と成らせ玉ふたのも、実は皆其叡慮、即ち憚りながら欲望を満足し玉はんが為めで、僧侶の祈祷に任せ置く丈けでは、気が済まず、親ら色々修法遊ばされたので、或は遠く熊野の奥までも、幾度か行幸になつた様な次第であるとは、これは自分の添へ口だが、何はともあれ決して世事に意のないことを示さうとはなさらなかつた。否それとは反対に、後白河天皇の如きは御在世の間に有らゆる事物に対して十分満足なされた御方と申して妨げあるまい。列聖の中にも斯様なのは一寸類がない様だ。只御満足出来なかった事は、実に夫の人口に膾炙する山法師に鴨河の水に双陸の賽ぐらゐのものであらう。成程夫の三十三間堂の大建築や、その多数の仏像も亦皆同じ天皇の御願てある。

自分は此の赤堀氏の非凡なる卓見を鑑みて、今更ながら密教の我が国既往の文化発達に多大な貢献をしたことを回顧しない訳には行かなかつた。併しそれはそれとして先つ何よりも、弘法伝教両大師の日本史上に於ける位置、否寧ろ日本民族の崇敬上に於ける一大懸隔の由つて来る所も、またこれで以て略ぼ明瞭に成つた様に思つたことを一言したい。申す迄もなく、世の講にも早く、大師は弘法に取られ、上人は親鸞、祖師は日蓮、大閤は秀吉、黄門は光圀に取られたと云ふ程で、憚りながら、伝教は到底弘法の匹には匪ず、恐らく生前にも弘法大師の眸裏には左程豪くは写つて居なかつたことだらうと推測するが、近頃例の万事に不行届がちで頓間なへまを遣るに妙を得て居り、逆に最も賢明な文部省は、新撰の国定教科書たる「尋常小学国史」に於て、弘法大師に前より一層多くの行数を与へると同時に、伝教大師から一切を奪ひ去つて、その姓名をさへ削除して仕舞つた。これは少々乱暴で、天台宗の面々が大に憤慨したのも、固より無理からね事と、衷心満腔の御同情を申し上げるが、併し心なき小学教科書編纂員の輩にさへ、斯様に軽蔑せられるのは、何故であらうか。自分は曾て弘法大師の事に就いて率先その日本文明史上の位置を明にしたことがあると共に、伝教大師の事も寄々は気を附けて居た。然かも亦十分纏つた意見もなかつた様だが、昨年伝教大師の大遠忌を機会として叡山の事務局から出版に成つて、三浦博士編纂と銘打つた詳伝を手にして略ぼ解決した。