乃ち自分は新刊の伝教大師伝読後の批判として、論文を起草し了つたが、それは折角の叡山大遠忌の際に広く世に示すのは、少々気の毒に思はれたので、暫く筐底に秘蔵してあつたが、今度夫の丁子屋書店に託して刊した拙著「日本文化と仏教」の中には固ぶり収載してある。蓋し弘法と伝教と両大師の比較談は頗る面白い事と信ずるが、今は一切省略するとして、只一言したい事は、伝教大師は元来坊間の八百屋型であり、又明治維新当初の西洋医者の七科全通式であつて天台宗とは謂ひながら、早く円戒密禅四教を一括して、デパートメントストア的に、陳列しやうと企てたらしい。然かも奈何せん何分田舎学問の上に、語学の素養がトンと無かつた様だから密教は一向に不通で、一時は弘法大師に就いて教を乞ふても見たが、それも色々な事情で、長続きはせず、幸に素願の通り、円頓一乗の大戒壇は成就したとしでも、天台一流のインテレユアリズムでは、貴族的にこそなれ、民衆一般には大なる影響を与へる事は出来ない。それはどうしてもプラグマチツクであり、やがてデモクラチツクでなくては駄目である。言ふこゝろ一念三千の、一心三観のと洒落れて見たところが、人間の感情々緒と没交渉では、上下通じて活きた人間を深く感激させる事は出来ない。それには実に密教の例の一切欲望満足的なものが最も必要に成つて来る。幸に伝教大師には後継者に慈覚大師や智証大師の様な俊秀が駢びて出て、各々入唐して今度は本物の密教を相応に修めて帰つたから、好い様なものゝ、若し伝教大師の後に此の両豪傑が出なかつたならば、伝教大師天台宗も亦或は疾く華厳宗などと同轍で、一個の宗門としては萎靡不振のものとなつて仕舞つたかも知れぬ。

其処に成ると、弘法大師の真言宗は実に最初から、正銘交ぜものなしの密教だから、大に違ふことを考へて居らねばならない。天台宗が早く朝廷の宗教たる貌があり、比叡山延暦寺が官寺の魁首であるにも拘らず、前陳の通い宇多天皇を、始めとし奉り、三帝四帝直踵いで、密教に随喜入門せられ、終に其の堂奥を極めやうとせられたことも、これで分かる。自分は数年前徳島市の千秋閣の大講演会に臨み、生の宗教と死の宗教と題し、真言宗は生の宗教である、浄土教は死の宗教で、此の二つが好く人情の機微に適し、独り永く繁昌するらしいと云つたが、別して夫の「理趣経」は実に人間一切の欲望、特に性欲高調の甚しいもので自分も門外漢ながら、既に多少は研究すればする程驚き入る。夫の立川流などが其処から出るのも亦当然で、此の流義の事も亦、自分率先して「密教学報」誌上に於て、敢て公にしたこともある。南朝への忠勤者たる醍醐の文観などが、此流派を汲んで居たらしいのも強ち無理はない。