それにしても、弘法大師生存中は、平素一体にどんな事をせられて居たであらうか。大師の平生と謂ふ風な事は、予ねて自分の問題として居たところで、而かもまた誰人も手を附けない様に考へる。当時発行の「六大新報」の降誕会号には、斯道の先輩井上哲次郎博士の弘法伝教両大師の、極めて簡単な比較談の様なものが載つて居たが、井上博士は伝教大師は一生活動して止まず、弘法大師の方は寧ろ学者で冥想に耽つてゞも居られたがの様に言はれて居るが、自分はさうは想はない。只伝教大師は例の戒壇建立の為に、取調ベやら何やらで西海道なり東山道なりの一部へ出掛けられた位の事で、活動も亦殆ど全く戒壇の事に限られた様に見えるが、弘法大師は却々さうではない。即ち自分は大師平生の研究方法の一端として、「大師全集」に就いて、その業蹟を調ベで見ることにした。
弘法大師には一代撰述の著作は随分沢山にある。就中「十住心論」や「顕密二論」などの格別大切なものは言ふを待たず。その他には諸経文の開題が非常に多い様に見受ける。音義儀軌の類も亦色々ある。併し作法次第の事を書いたものは実は案外に少い。然り、而してそれよりも、「文鏡秘符論」の一大著述は勿論、矢張りお得意の詩文が太だ多いと謂へる。そこで又「性霊集」を繙いて一応その目録を読んで行つたが、同書全部十巻中第六第七第八の三巻は、悉く檀那達の為に法事を修められた時の願文とか嗹●(口偏に親?)文とか表白とかで、総計では四十首以外もある。それは畏くも朝廷を始め奉り、公卿殿上人に頼まれてしたもので、先考先妣の為にするもあり。亡妻、亡児、亡妹、さては先師とか亡弟子とかの為に、したもので、是れに由つてこれを観ると、実は今日普通に坊さん達の遣つて居る事と大差ないのに気が附くだらう。併し是等の事も亦固より文化催進に直接間接貢献することのあつたことは信じて疑はない。
斯く弘法大師の平生を明にし得たと同時に、自分は又転じて興教大師の平生をも、同じ方法で一つ調ベて見たいと思ひ立つた。それは、彼と此とは時代も早く二百五十年も隔つて居る事であれば、万事相違するのは喋々を待たないが、それよりも又別して興教大師の時代は丁度白河天皇から引き掛けて鳥羽天皇の御盛んな世で、後白河天皇の御宇に稍々先んじたのだとすれば、前掲の赤堀氏の文と較ベて、真言宗の内部如何を明にする必要があると考へたからである。尚ほ明に申さば興教大師は堀河天皇の嘉保二年即ち西暦一〇九五年六月十七日の降生で、近衛天皇の康治二年即ち西暦一一四三年十二月十二日の入滅である。その撰述著作は、「興教大師全集」が只一巻ある丈けである。