「興教大師全集」には弘法大師のそれの様に詩文や文学上の著作は極めて少い。就中最も多いのは秘釈類であるが、それに次ぎては観法観頌のものが多い。表白も幾篇かある。併し特に自分の注意を惹いたのは何々講式といふものが色々ある事である。これ固より弘法大師の作法次第に相応するものではあるが、弘法大師には講式は一つもない。俗伝には大黒講式といふのがあるが、固より偽撰で取るに足らないものである。蓋しこれに由つて観ても真言宗に於て種々の講会か盛になつたのは稍々後の事で、総じて何宗にも講式なるものは極古い所にはなかつたらしい。懺法も亦略ぼ之れに相当する様に思はれるが、それはそれとして興教大師撰述の講式は如何なる種類のものがあるかと云ふ事を仔糾に観て行くと、思半に過ぎることがある。
即ち全集中に収録したものは、大別して五種とすることが出来る、大聖歓天を始めとし。不動明王、愛染明王、毘沙門天並に地蔵菩薩である。就中主なるものはと云はゞ歓喜天と不動明王とである。想ふに当時上下一般に崇敬し祈願したのは、即ちそれであつたらうと判定して妨げあるまい。否明治大正の今日でも、尚ほ到処最も流行して居られるのは、歓喜天と不動明王とで、地蔵これに亜ぎ、毘沙門は今はその下にある様だが、愛染明王はトンと明かぬらしい。神仏にも栄枯盛衰は免れないから面白い。不動明王は誰が何と云つても関東で成田の不動が第一の勢力である。之れに対向すベきもの関西で生駒の聖天で、志貴の毘沙門も亦大抵これと比肩すると謂ふことである。斯くして関東と関西と新古両義に適当に配分されて居るのも有難い。但し此の中に観世音の無い事は又注意を値しやう。しかし今茲にはそこ迄は進んで論ずる暇を持たぬ。
知らず歓喜天と曰ひ、不動明王と曰ふのは、如何なる仏様であるか?凡そ仏さまの事に就いては、先年臨済宗の故醍醐恵瑞といふ文学士が「仏さまの戸籍調べ」とか云ふ一小册を拵へて、意外に好く売れたさうなが、失敬ながらアレはマダ素人の面かも極々初学向きの品で太だたよりない。禅僧には往々斯んな風に人を馬鹿にしたものがある。それはまだ、「日本百科辞典」や「仏教大辞典」などの方が固より遙に精しい。併し今茲には自分はそんな有り触れた穿鑿よりも寧ろ此の興教大師撰定の講式類に拠つた方が、右の仏さま達の功徳はなほ一層簡明に分かると申したい。
即ち「不動講式」には、第一には内証秘密の徳を明かにすると云ひ、第二には降伏利生の用を明かすと云ひ、第三には発願廻向とある。又「不動講秘式」の方には特に臨終正念を祈ると云ふ事までも加へられて居る。若し夫れ歓喜天に至つては、第一に本地の高広を嘆ずとて陰陽二道の根元、万物これより生ずと云ひ、第二には垂迹の化導を賛すと云つて、夫婦抱立の姿は二儀和合の相を表し、象頭人身の形は十界倶融の理を彰す。第三は誓願の特勝で、上品者には王位をも与ふベく、中品者には帝者の師とし、下品者にも富貴は無窮と謂つてある。第四は利益無辺で、第五は廻向発願を陳ベてある。成る程これでは執れも大に繁昌しやう。