そこで自分は更に一頭地を抜いて、元来此等の不動明王並に歓喜天は如何なる由来のものであるかと云ふ事を経文を離れ、深く本源に遡尋して考究し始めて見たが、想ふに不動も聖天も執れも自然界の力、エネルギー、特に生産力を象徴したものてあると思つた。就中不動の方はこれは大地の力を表象して居るもので、それは不動と謂ひ、無動と謂ふのでも分かるが、中央といふ所に特に重きがあるので、その青黒の像とするのも亦確に土地を象ったからと見られる。大火焔は或は火山から来たかとも想はれるが、そこ迄一々牽強して見やうとは望んで居ない。不動使者といふのは何となく希臘神話のヘルメスや又羅馬神話のメルキユースを連想せしめるが、併し彼等は古欧羅巴のものよりは、その性格が遙に複雑である。総じて明王は忿怒の相をして居られるが、これは只欲望の激しい所を象徴したものと見たならば不思議はあるまい。従つて孔雀明王の如きは同じ明王の中でも、別段忿怒の相はない。尚且つ自分は明王はすベて土地の方に属するもので、謂はゞ地祗であると看たい。不動明王は土地の力であるから、又特に臨終正念を祈る常体ともなるので、死したものは当然である。然り而して神祗の発達上、土地神の方が先で、後にその位を天象神に譲るから、不動明王にさへも何となく奴隷の態を免れない。若し夫れ愛染明王は不動明王の動的方面即ち愛情の激昂した所を表し、地蔵は、不動明王の静的方面即ち死後の救済を示して居るとも見られやう。
歓喜天は言ふ迄もなく、天部であるが、これは天文気象に於ける生々の力を象徹したものに違ひない。興教大師の講式で見ると、男天は大自在の所変で、女天は歓自在尊の応化だと云ふ事に成つて居るが、これは素、善無畏訳する所の「大聖歓喜天法」に出て居るので、男天は●(田に比)那夜迦の一類で、諸悪を行ひ障礙を為すものであり、女天の扇那夜迦の一類は又諸善を修め福利を施すものである。而して此の男女両夜迦は素兄たり妹たる同胞である。兄は妹の美貌に懸想し恋着したのを、妹は容易に肯ぜず、徐に愛敬の徳を以て教導し、漸く相許して他の毒心を除いたと云ふに成つて居る。其の像は普通には男女駢立して向ひ合ひ、相抱擁するに過ぎぬらしいが、支那の喇嘛寺などには、巧なる機関仕掛にて以て、男女婚媾の状態を一々活動させて観せるのもあると聞き及んだ。何しろ頗る淫猥なもので遉に希臘羅馬にはない様だが、憚ながら我が大日要貴尊と素盞嗚尊との同胞誓の神話には何となく、之れより想到せしむべき所がないともしない。而して近頃一派の神話学者は、例の天文気象の説明を藉つて、大日雲貴尊は太陽の赫々たる光輝であり、素盞嗚尊は暴風雨の陰晦冥濛の荒れであるとする。而かも其の間に万物自然の生々化育が行はれて行くとすると、此の歓喜天の男女両夜迦にも亦同じ様な所があると謂へるが、畏れ多いから推究すまい。