但し此の歓喜天の方は、天地自然界の生座の妙機を、一層その淵源たる男女の性欲情交に於て、極めて露骨に顕示して居るので、●(田に比)那夜迦は男性々欲の攻撃的な所、扇夜迦は女性々欲の屈伏的な所を象徴したものと見たならば一切明瞭である。同胞婚媾は太古草昧の世態を存して居るのだとすれば必ずしも怪しむを用ひない。象頭は是れ亦近時ヴント流の説明に倣うて、トテーム時代の面影を存して居るとしたならば、敢て不思議はあるまい。
とは云ふものゝ失敬ながら将来教育益々普及向上して、人智開け趣味が精醇に成り行くと、復斯んな異様な偶像崇拝は教育ある良民の間には迫々捨てゝ行くベきは当然で、自分の児輩は天真爛漫な所から、勿体なくも、博物館陳列の弘法大師製作の明王の国宝たる尊像を観てさへ、幼者は化ヶ物だと恐がり、稍々長じた者は野蛮だナ偶像崇拝だナと一笑に附して貶す傾向があることは争へない。否「理趣経」なども文句はどうしても淫猥の讒は免れ難い。そこが真言宗の具識の諸君子に屹度猛省し熟慮し工夫を廻らして貰ひたい所で、例へば大阪市内でも北は堀江、南は南の坊と並称せられる聖天即ち歓喜天も、其の参詣者の種は概して上品とは謂へぬ。又現に最近にも南の坊の法案寺は庫裡の方から失火して、やがて本堂にも延焼しさうなを辛く防止したさうだ。迷信の徒はこれも偏に聖天様の御利益と、一層固く信心するらしいが、腎明なる住職和田達玄君の内心の極々底に立入つたならば、定めて心苦しい事であらう。囚つて同君は早く子弟の教育に熱心鋭意で、公私共に頗る奇特の善行が多いと云はれて居る。失敬ながら不浄財を……芸娼妓や博奕打やさては盗賊(?)から奉納する……浄化善用する事を心掛けて居られるものと、善意に理解され、又成田山の方では固より決して生駒山の様な、都人士淫靡の風は漂ふては居らず、却つて所謂五大事業など、文化的の美学も夙に正々堂々と行はれて居るのは、執れも衷心敬服に堪へないが、更に一歩を進めたならば一層妙で、それは目下民衆文化運動の二大事項たる労働問題を不動明王中心に解決し、婦人問題を歓喜天中心に解決して、大に社会の進歩に貢献せられたい事である。而して所謂文化生活改善も亦真言宗の諸願満足から出立すれば、或は容易に出来やう。但し「理趣経」に物資の生産あつて分配談の見えないのは、物足りないと云ふ者もある。
斯くて尚ほ又文化を哲学上の一般的普遍的論理的妥当性の所謂文化主義に看んとする人には例へば興教大師の諸秘釈や諸観法は、大に参考に成らうし、又文化を民族精神の伝統尊重に即けて看んとする人には、同大師の「孝養集」なども、確い好資科であらう。即ち一部の「興教大師全集」は「弘法大師全集」と共に、日本既往の文化史を言ふ者には、決して度外視すべきものでないと信ずる次第なのである。尚ほ自分は今度この書を出版するにより、小閑を偸んで大和西大寺に愛染を拝し、生駒山に聖天に詣でたが、彼此栄枯盛衰の差余りに甚しきのには重々驚いた。