真言宗とは元来如何なる宗旨でござりませう?暫く自分の卑見では、吾が真言宗は印度に於ける東洋哲学の極粋を集大成てたものであると申したいのであります。西洋の学者の語にも、科学的実験は西洋の長所であるが、それに対して東洋別して印度の長所は哲学的思弁であると、殆んど異口同音に申して居ます。而して自分は今茲に真言宗は印度に於ける東洋哲学の極粋を集大成したものであると公言して憚らないのであります。勿論真言宗は一個の堂々たる宗教であって哲学ではありませぬ。凡そ哲学と宗教とは或る点は甚だ相似て混同せられ易いものであります。併しそれは自ら別な筈で、宗教には行事か伴ひ、由つて以て或る利益を享くるにとを目的といたして居ますが、哲学は理屈だけで行事は伴ひませぬ。それと同時に宗教の教相は又数々哲学と同一視せるれても致方がござりませぬ。乃ち真言宗でもその教相はやがて印度発生の東洋哲学思想の極粋を集大成した様だと申すのでござります。

偖印度発生の東洋哲学にも詳に論じて行きますと、色々と種相が沢山あります。夫の外道と呼んで居るものは、畢竟は皆仏教以外の宗教哲学乃至哲学類似のもので、あります。是れには古く井上円了博士の「外道哲学」など云ふ著述もあります。何でヘ九十幾種の外道を数へる事が出来ます。尤も其の中で重要なるものは五六種でせう。近頃学士院会で恩賜賞やらを頂戴いたされました今の文学博士木村泰賢君の「印度六派哲学」に、よく其の妙諦を描き出してある様です。但し自分は今茲にそんな細い点まで立ち入らうとはいたしませぬ。只だ印度固有の哲学は優波尼沙土で、是れに全く印度固有の婆羅門教より出で吠陀経を本とします。然り而して仏教とても、亦素は婆羅門教に胚胎したと云ヘば云へないこともありますまいが、釈迦如来が婆羅門教に対して新に仏教を肇められたので、其の後また自ら色々の仏教哲学が出来ました。併し印度では仏教は一時は大分隆盛であつたが、長くは続かず否広くは行はれない様で、依然婆羅門教が存続して居り、現に印度教として盛に行はれて居るのも、畢竟は之れに過ぎませぬ。今日印度には回々教が却々盛な様ですが、印度の宗教界を大体上三分して申さうならば、印度教と仏教と回々教とで、その外に基督教を始め色々の宗教があるが、多く言ふに足りますまい。印度教の仏教に於ける関係は、猶ほ吾が国の神道と仏教との如しと云ふ人があるがそんなものでせう。

ところで真言宗はどうかと云ふと、固より今日印度に於ては何宗何派と謂ふ風のものはありませぬ。否それは支那などでも矢張りさうで、多くは兼学兼脩の貌であり、日本に於てのみ十三宗五十六派などと細く分かれて居るのであります。特に印度には仏教でも大乗教の方は殆んど全く地を掃ひ、小乗派の灰身滅智で難行苦行するものゝみ行はれて居る様ですが、併し印度現存の梵文の経文には真言密教に属するものが比較的多いと云ふ事が、近頃一層明瞭に分かった。是れは「宗教研究」(第二年第七号)の中に収録したる岡教邃氏の「現存仏教梵本目録」に由って知られます。是れは何でも無い事の様だが、大に注意を要する点であります

と云ふのは申す迄もなく真言宗印ち密教は矢張り仏教の一部分に相違ありませぬ。仏教を大別して顕教と密教との二つに分ける。而して其の間に自ら浅深略奧の別ある事は、弘法大師の「弁顕密二教論」の冒頭第一にあります。顕教は応身仏化身仏の開説で、密教は法身仏の直説と謂ふのです。もう少し分かり易く申すと、顕教の方は釈迦如来の説法であるが、密教の方は大日如来の直説であるとするのです。で若し単にその通りに解釈するならば、真言密教は果して普通一般の意味を以て仏教と呼ベるかどうか問題になります。普通一般の意味では、仏教と謂ふと釈迦如来の説かれたるものと解するからでありまず。大日如来も法身仏だから矢張り仏教に違ひないと申さるゝか知りませんが、それはさうとしても、普通一般の解釈とは固より違ひませう。

尤も此の大日如来の直説法と謂ふ事には古来既に色々不審を打つ者があります。法身仏の説法が聴き取れて直ぐ文字に写され、今現に見る如き「大日経」などに成る事が出来るかどうかと云ふので、是れも亦矢張り釈迦の説法だと言ふ人も随分あります。そこで大釈異同と云ふ事が喧しく論ぜられるのですが、唯だ釈迦の説たと云って仕舞つては何の曲もない。即ち明治初年頃の碩学上田照遍大徳などは、一種の折衷説を立てゝ、釈尊は四十九年説法の最初と最後に密教の境界に入られ、特に最後に大日如来と直談せられて、其の聴受した所を更に口受して金剛刪手の筆記したのが、やがて「大日経」だと云はれたさうです。

尚ほ又此の「大日経」の保有方に就いても、古来色々議論があります。それは大日如来直説の経文は爾来長く南天竺の鉄塔の中に密蔵せられて、世に知られなかったのを、龍猛菩薩(龍樹)が感得して引出し、世に公にしたのだと云ふ伝説に就いて、南天竺の鉄塔と謂ふは何処に在ったのが、そればどんな大きさで、どんな形の塔であったのか、元来何人の造ったのか、そんな事は恐らく一向に分かるまい。是れは全く龍猛菩薩の胸裏を指して云ふのだらうと云ふ者が追追多く成りつゝあるらしい。