否自分は真言密教の教相共に優波尼沙土哲学から出でたものとし、特に夫の吠檀多派は格別に吾が真言密教に極く近いやうに看受ける。特に六大無礙とか、即身成仏とか、三劫とか、三密とか謂ふ風の事は、此の吠檀多派に於て殆ど真言密教同様に説いてあると謂へる。蓋し吠檀多派は優波尼沙土哲学の最も発達したもので、従つて一層真言密教に近い。例へば爾前の優波尼沙土の方では、宇宙発展の大元は有であり、有より火を生じ、火より水を生じ、水より地を生ず。而して斯く発展するは各々斯く成らんと考へるに由るとする。此の三要素に有が個我と成つて入り込み、名と色とを開展し、即ち万物は成るとする。然るに「吠檀多経」になこと、我より空を生じ、空より風を生じ、風より火を生じ、火より水を生じ、水より地を生ずるとする。而して個人の本質は知即ち識であるちすると、其処に六大は出来る訳で、所謂我は梵であるとすると、其処に個我と最高我とは一体であるべき根拠は立つのである、。此の個我と個体との関係は輪廻で、未覚者は流転する。而して其の際に於て粗身とか細身とかを云々するは正しく三劫である。最後に梵に対する一致帰入は真知即ち覚に由つて或るので、其処に妙楽境はある。されば此の最上絶対の知は又何に由つて出来るかと云ふと、瑜伽即ち禅定して梵を瞑想し、自ら其処に至るより外に途はない。是れは所謂阿字観と異なる所はない様に思ふ。斯くして現身解脱の我は既に梵と同一不二にして、而かも体根を具する事が出来ると云ふ所に、即身成仏の真義はある。然り而して知者即ち覚者は死後体を去つて大陽の光に従つて進み、最終の解脱をすると云ふ。それが所謂兜卒の往生なとになるのではあるまいか。真言密教の事相は同し優波尼沙土にしても、初の弭曼薩派に出づるあり、而して教相の方は後の吠檀多派に負う所が多いと謂ったならばどんなものであらう。事相は祭式で、数相は哲理である。
自分は固より門外漢で何事も十分熟知しないが、偶々吠檀多哲学の一端を耳にして、其の頗る吾が真言密教と、類似するあるを思ひ、所謂真言密教は印度発生の二大哲学系を集大成したものだと云へる卑見を一層明にする為に、斯んな風に言つたのですが、勿論「吠檀多経」の通り丈けならば、それは婆羅門であって仏教ではない。凡て仏教では無我と謂ふ事を主眼とする。乃ち真言密教も亦固より無我である所は、「吠檀多経」などとは自ら異つて居るのは明てあるが、其の余は如何にも吠檀多派否優波尼沙土哲学に酷似して居る様で、又現に同じ吠檀多派にして後には随分大乗仏教を借り入れたものもあるさうであると云ふことを思ひ合はさねばならぬ。
(凡そ此の吠檀多教の事は、吾が国では姉崎木村等諸家の外に、文学博士宇井伯寿氏などの好く研究して居られる様で、先年「哲学雑誌」に其一端が公にせられてある、参考の値は十分にある。)
斯う云ふ次第で真言密教は顕教とは大に違ふ。夫の小乗教の灰身滅智は畢竟虚無主義で、固より取るに足らんが、大乗とても亦兎角寂静主義で、理屈で以て娑婆即寂光浄土と悟つて見ても、それは只だ観念である。其処に成ると真言密教は、極めて動的であり活動主義である。是れ亦婆羅門教に負ふ所が多いのではあるまいか。之れを西洋の哲学にすると、顕教の大乗はアイデリヤズムにあらずんば、ローマンチシズムに外ならんが、真言密教はプラグマチズムで、それはベルグソンの最近盛に唱道する所と似て居る。否ベルグソンの神秘哲学は一面は又頗る禅宗に似たる所もある。而して禅宗も固より夙に教外別伝と云ふことで、普通仏教の五時八教中に這入らざること、真言密教の顕教以上なると同じとすると、尚更に深い意味があるらしい。