色々お話が長く成ったが、尚ほプラグマチズムと真言密教との関係に就て一言する事を許して貰ひたい。抑々プラグマチズムは申す迄もなく実際を主とするもので、人生々命を主とし、ベルグソンの如きは頻に生の躍動と謂ふ事を、主張して居る。知らず生の躍動とは何でせう。自分はベルグソンが頻に創造的進化を喋々する例より推して、之れを本能特に性的本能と看てはどうかと思ふ。而して此の性的本能は古今東西数々宗教信仰となつて現れて居るが、性的本能の宗教化したるものでは、吾が真言密教に於ける「理趣経」ほど完成したものは恐らく他にあるまい。然かも是れ又普通一般の仏教に見ざる所て、是れ又真言密教が仏教以外の印度神話などから取り入れて集大成したものであると考へる。
試に其の大意を略述して見ると、それは十七段から出来て居る。第一段は金剛薩●(さった)品で、所謂十七清浄句を説かれたのが、全体の根本てある。而して最後の第十七段の五秘密品に至つて其の究竟を示されたものである。所謂、十七清浄句とは、一言で申さうならば、吾儕人間の一切の情念は、正念に住し至心に之れを観察すれば、皆本来自性清浄であり、又之れを宗教上より申しますれば、金剛薩●(さった)即ち大毘盧遮那仏の大睿智の功力に由つて浄化せられ得べしと云ふので、斯く一旦浄化された上は其の情意の儘に生活し享楽して、斯生を送り行くのが善いので、其処に生々活溌の楽天地はある。それが又やがで即身成仏で、生仏不二の極意と成ると看るのである。(梶尾僧正前掲書参考)
然らば十七とは何かと謂ふと、先づ最も低き所では色声香味の感官欲から始まり、次ぎに一歩を進めては荘厳、意滋沢、光明、身楽など云ふ今日の心理学上の用語ては一般感覚とも看らるベきものを言ふのである。是れは春夏秋冬の四季に配当したものらしい。更に進んては自我の情と男女性欲とを以て情意の極と立て、それを能所の二即ち今日の言葉では客観から主観に入つて、其の二方面を四つと五つとに分けるのである。客観即ち所観の方から云ふと色、適悦、愛、慢と次第し、主観即ち能観の方から云ふと妙適、欲箭、觸、愛縛、一切自在主となる。先づ色と謂ふのは俗にも女色などと申す様で、眼に綺麗と見えるのである。その綺麗なものと相接触すると、適悦と謂つて一種言ふに言はれぬ嬉しい楽しい感覚が生じ、其処から愛も出て、愛しもし愛されもする。斯く成ると自立自在唯我独尊の勝ち誇った慢心も出る。それを主象の例より謂へば妙適、欲箭、觸、愛縛、一切自在である。強ひて申さば、妙適、欲箭、触、愛縛は情で、切自在主は意である。而かも此等の情意を一言以て掩はゞ、全く色情性欲であります、欲箭の文学及キユビツドの矢を思ひ出させて面白い。
斯様に見て行きますと、「理趣経」は確に是れは一種の性の崇拝で、たとへ如何に醇化されて居ても、到底淫猥の譏を免れまいとの評もあらう。従って真言宗でも古来常に此の危険を慮つて軽々しくは伝授せられなかつたと云ふことで、現に夫の一時喧しかつた立川流の邪義なども、畢竟此の経の解釈が正しきを得なかった為に出来たのだと見受けます。何はともあれ、性の崇拝と謂ふ事は、古来諸宗教の根柢を為して居ることは敢て珍しがらざることで、別して吾が古神道の造化神を祭り、生々主義を旨とするのは、又其の顕著の一例でせう。而して今日の極新しい宗教心理学者中には青年期の宗教心発動と春機発動とは略ぼ其の時を同じくし、其の本を一にして居ると謂ひます。
此の性の祟拝と云ふ風の事は、仏教の中には有りません。否婆羅門教の中にも必ず有ると云ふ訳ではありませぬ。寧ろ印度土人のアーリヤ民族間の信仰に淵源するものでせう。而してそれは早く優波尼沙土時代に於て婆羅門中に取り入れられ、其処に涅婆と毘涅拏と恩威二大人格神を立てるの素地を為したが、然かもそれが愈々明となつたのは仏教興隆に対する婆羅門の反動時代で、寧ろ新婆羅門教と謂へる様だし、それがやがて印度教と成るので、所謂涅婆派中には女神派と云ふものがあつて盛に生殖力を、祟拝し、種々の肉欲的儀礼を行ひ最も秘密にする様に成った。其目的は由って以て不思議に生殖力を得て己の欲望を満足させんとするのである。而して此派では格別に呪文とか印呪とか云ふ風の事を尊重するとのことである。此の女神派の経典を怛特羅と謂ふ、其の成立したのは大抵西洋紀元七八世紀頃だらうとの説である。(姉崎博士「印度宗教史」等参考せよ)
自分は固より呉々も真言宗教を以て直に印度教とせんとする者でない。「理趣経」を以て怛特羅とせんとする者でもない。併しそれが又真言密教中に取り入れれられて、やがて此の「理趣経」の本となったことは必ずしも想像に難くない。それは矢張り善無畏なり金剛智なりが支那に伝来したものと考へる。而して一旦仏教中に取り入れられては、固より無染無著で、何等怪しい事は無いが、それにしても自ら他の諸経とは何となく特別の取扱に成って居る様で、現に此の経に限って漢音で読誦するなども何か訳があらう。尤も他の真宗などでも「阿弥陀経」に限つて漢音で読む事もあるが、真言宗の「理趣経」は漢音に限って居ると云ふ事である。
何はともあれ斯くして真言密教はいよいよ印度所生の二大宗教否両大哲学を集大成した事が分かる。然り而して其の即身成仏を高調する点は実際的であり、活動的であつて、他の顕教の談理に至つては更に現実的であり、創造的であり、産業的てあって、頗る面白い。厭世とか禁欲とか吝な思想は、此の「理趣経」の上よりは大に反対する。従つて又此の「理趣経」は、煩悩即菩提の教とて昔から亡霊頓証のため最大秘法として行はれて居る様に聞き及ぶが、自分は今後更にそれを真に現世利益の根本法として拡張したならばどうかと考へる。それは丁度真宗乃至浄土宗一般の人々に対して、極楽模倣を勧奨する様に真言宗の人々に向つても亦此の「理趣経」の生々主義を鼓吹されんことを希望したいのである。唯だ其処には飽迄も濟世利民と云ふ高尚遠大な目的を立てないと、多くは我利々々亡者と成って仕舞ふ処がある。性の崇拝亦尊い哉。