法印宥快は伝へて応永二十三年の入寂だと云はれてゐる。そこで去る大正四年は正しくその五百回忌に当るといふことで、真言宗古義派ではその記念として、「密宗学報」の一物を特に宥快号とし、自分も亦門外ながら懇嘱に応じて、一篇を起草したことである。それが今茲に掲ぐるもので、一体に宥快は著述頗る豊富に、鈔物口決既に印刷されてゐるもの丈けでも、数十部幾百巻もあるらしく、実に古義派の宗学は其処に始めて成立したのだと云はれてゐる程である。しかも当時自分は特に「宝鏡鈔」といふ一小冊子に、特別多大の注意を払ひ、それに就いて立論した。と云ふのは此の書こそ実に夫の所謂立川流なる性欲崇拝の邪義を駁撃して、以て破邪顕正の大幢を樹てんとしたものであるからである。想ふに此の時は宥快壮時の著作で、旧伝には天授元年頃のものとしたのを見ると、時に宥快は恰も而立の齢に達したと覚える。

然り這の「宝鏡鈔」は一部僅に十六丁の片々たる小冊子に過ぎない。然かもそれは問答体に出来てゐて、議論叙次あり、一絲乱れざる手際は、遉に天晴なものだと感服した。即ち劈頭第一に先づ真言密教の最も貴重な所以を標榜し、その血脉伝授を明にし、師資相承を示して、本末源流の由つて分れ出づるところを、一日瞭然たらしめたのは、有難いと謂はなければならない。その略に曰く、往昔賢哲遠く唐土に渡つて斯教を伝授したもの総ベて八家ある。それは東寺に五家で、他門に三伝を数へる。而かも正嫡はと謂はゞ、飽迄も弘法大師たる事は争ひ難い。大師の法弟入壇受法の者頗る多くあつたが、就中所謂十大弟子を棟梁の器とし、特に実恵・真雅の両大徳を貫首とする。その伝統は双方今に並び存してゐるにたが、更にその本と為つてゐるものはと謂ふならば、それはどうしても真雅の方が主であらう。真雅の付法に源仁があり、源仁の下に益信、聖宝の両僧正がある。益信は広沢の根本で、その流派は九あるが、又時には増して十流ともなる様た。それは御流を首とし、西院流・得寿院流・華蔵院流・忍辱山流・伝法院流を、広沢六流と称するが、之れに加ふるに高野持明院流あり、慈尊院流あり、常景院流あつて都合九流とし、更に別に宝寿院流を加へて十流となるのである。尚ほ此の外に成就院流・真乗院等もあるが、之れと駢んで聖宝の方では小野流が剏められた。而してその末は岐れて又小野三流醍醐三流が出来た次第で、安祥寺・勧修寺・随心院は小野流であり、三宝院・理性院・金剛三院は醍醐流である。又別に高野中院流なるものあり、小島流・松橋流と併せて都合九流とならう。若しこの上に西大寺流を加へると、是れも十流を数へる様になる。以上は皆正宗であるが之れに与らざるものは一切邪義である。立川流即ち然りとして、先づ第一問答では立川流の由来を詳叙し、又第二問答では別して弘真僧正の左道たることを痛罵して、延いて宝筐上人に及び、第三問答は煩悩即菩提の真諦を明にしつゝ、然かも立川流の言ふところは、全然邪義だと判定して、毫も仮さない。而して其処には「立川流聖教目録」を附録とし、以て真偽の糾明に資すると云ってゐる。想ふにその外題を特に宝鏡としたのも、自ら正邪甄別の浄玻璃を以て自任したもので、意気旺盛と謂ひたい。これより先き約二百年、豊原寺で誓願房なる者があって、「受法用心集」二巻を著はし、破邪顕正に刻苦尽庠したものらしいが、未だ十分の効果が見えなかった様で、宥快の奮然蹶起したのは、太だ痛快である。