偖宥快の「宝鏡鈔」に言ふところでは、所謂立川流は素、醍醐三宝院権僧正勝覚の舍弟仁寛に出たとする。この仁寛は康平三年頃の生れであったらしく、後三条天皇の皇子輔仁親王の護持僧として一時声誉太だ隆盛であった様だが、偶々不軌を図ると云ふ廉で、罪科に処せられ、伊豆の国へ流されて、名を蓮念と改めて居た。而して民衆に真言を伝授しつゝ、辛く糊口の資を得たといふ、極めて哀れな境界である。然るにその頃武蔵の国の立川といふ所に、一人の陰陽師があり、それが此の仁寛に就いて密教を聞き、その家学と混合して一派を開き、烏滸がましくも立川流などと冐称して、剰へ濫りに真言宗の流儀此に在りと宣言した。それがそもそも始まりで、而して蓮念の弟子に兼蓮(或は兼念)なるものがあつて伝へて、越中の方へ流布し、大に行はれる様になった。その後又覚明・覚印相承け、二代共に相踵いで高野山に登って、其処に大に教線を張ったので、一時は之れに帰結するものも尠くはなかつたらしい。併し宥快出世の頃は早大分に衰へてゐた。一説では兼蓮より覚印へ覚印より澄鉄へ澄鉄より覚明と次第相承したのだとも云って居る。将又大和の方には三輪に道蓮房宝筐がゐて、盛にこれを弘め、下野には龍光院の源照が配流せられてゐて、此の法を伝へた。この人は素は中院流であつた。それを明澄・賢誓、勝深といふ順序で承けて行き、却々勢力を逞うしたと見える。

斯くて時代は漸く推移したが、建武の頃に文観房なる者があつて、更に大に此の流風に宣揚したから溜らない。文観は元来は法華寺の徒弟で律僧であり、醍醐の道順に従学したものだが、夙に陀祇尼の法を修めて、頗る効験があるとの評判を博してゐた。そこで後醍醐天皇が北条氏の征討を計画せられる様になってから、召されて祈祷を行ひ、畏くも寵眷太だ優渥で、或は内議に参したかとも想はれる程である。即ち早速抜擢して僧正に補し玉ひ、名も弘真と改めて、やがて醍醐の座主に任ぜられたのは、真に異数と謂はなければならないが、それより尚々累進して東寺の寺務をさへ掌る様に成り、御覚えいよいよめでたく、自ら醍醐の嫡流だと誇称して威風堂々と四隣を圧しつけてゐた。併しそれは全く立川流の邪義を伝へたものであることは掩ひ難い。一代に述作するとこる、千有余巻と称せられ、大事の印信亦三十余種に及んださうで実に一時立川流は朝野を席巻した態である。京都の諸山は固より皆慣服して抗言するものもなく、高野の衆徒は頻に嗷訴をして見たが、根柢牢として却々容易くは抜けない。爾後正平十二年文観は終に南朝に殉じて吉野で死んだと伝へられて居る。それは確に一個の忠臣であることには屹度注意しなければならない。或は宥快の如き学究者流の端倪し難いところがあつたのかも知れない。とにかく宥快が血気に任せて、独り此の大敵に喰つて掛ったのは誉めて好からう。尚ほこれとは別に天王寺の方にも、真慶といふものがあって、勧修寺流に属してゐたが、夙に博識の名高く、附随の門侶も少からず、それが一旦立川流の邪道に陥つてからは、悪彫響も亦甚しかつた様で、真慶の実子に増瑜あり、増瑜の実子に明玄があって、相嗣いで勢力を拡張してるた。宥快の目ざすとこるの敵は寧ろ此の方であった様でもある。天王寺と南朝の関係如何も回想して見るが好からう。

これを要するに、立川流の初めて起ったのは、崇徳近衛、南朝の際らしい。当時綱紀紊乱、彝倫太だ蠱れてゐたことは、史上に現著であるとする。そのこれあるは当然と謂へよう。それから、下つて北条氏の末に及ぶと、鎌倉幕府の威勢も亦漸く地に落ち、強弩の末魯縞をも穿たざるの観あり。公武の問動乱相踵ぎ、終に南北両朝の対立となって、海内沸騰人心恟々といふ有様である。其処には人々皆刺戟の強烈なものを望んだのは当然で、文観一派の立川流が広く行はれるのも、自ら由来ありと見られる。蓋し天台に対して日蓮があるとすると、真言に対して又立出流の起るのも、必ずしも怪しむに足るまい。廟堂既に無礼講があるとすれば、愈々妙だらう。或は曰はく、宥快は藤原実光の忘れ形身で、早くから後光厳天皇の愛願を辱うしてゐたと、何はともあれ、それが北朝方であったことはまぎれもなからう。宗教と政治との混同は、膚見を以て軽々しく正邪曲直を判じられない。