斯くて宥快が「宝鏡鈔」に於て、立川流の邪義を破するところは略ぼ左の通りである。曰はく、立川流の所説の様な事は、如来已にこれを呼んで魔説とし無間業としてゐる。例へば「大仏頂首楞厳経」に曰ふところを看ても知れよう。同経に云へらく、潜に貪欲を行ひながら、口中に好んで眼耳鼻舌皆浄土たり、男女二根即ち是れ菩提涅槃の真処なりと云ふ、彼の無智の者この穢言を信ず。これを蠱毒圧魔勝悪鬼と名づく。年老いて魔と成り、人を悩乱す。迷惑して知らざれば、やがて無間業に堕すと。

尤も立川流の方では、又頻に煩悩即菩提の義理は、大乗の妙旨なりと主張する様で、それには先づ「無行経」を援引して、婬欲即是道、恚癡亦復然、如レ是三事中、有二無量仏道一と云ふを始とし、天台で多婬而梵行、邪見即正と云ひ、華厳で真該二妄末一・妄徹二真源一と云ひ、乃至三毒に遇して三徳円なりと云ふも皆然りとする。真言宗にも亦若能明二察密号名字一・深開二荘厳秘蔵一・則地歓天堂・仏性闡提・煩悩菩提・生死涅槃・皆是自心仏之名字・焉捨焉取とあるから、煩悩即菩提は決して邪見ではないと言ふ様である。

それに答へて宥快の曰ふところは、左の通りである。凡そ諦理に依つて煩悩即菩提を談ずるならば、大乗実教の宗義である。然かも実義を知らないで、只妄情を認め、煩悩を以て菩提なりと執ずると、三途に沈淪する。それが邪見でなくて何であらう。天台では三諦に依って、即ち是れ陰に皆如の理に入るのである。そこで煩悩咄菩提と云ふのだが、真言でも亦六大無碍・阿字本不生の道理に依って、三道の流転はやがて諸法の本源を運ぶと談ずるのである。併しその因由を知らず、只妄情に任せて、煩悩即菩提と云ひ、父母は是れ理智なり、所生の子はやがて理智不二の仏だなど云ふのは、名辞ばかりで実義がない。若し三毒即仏であるならば、一切の迷到即仏たるべき筈で、何等方便を仮らずして、自然に仏であらう。さすれば顕密の教何の詮があって起ったとするか。若し更に進んで、真に即身成仏の先途を遂げんと欲する者には、三摩地の教に依って、心月輪を観じ、●字●字●字等を思惟して、纔見常見巻舒自在の一切智を期すベきぞと、循々と丁寧に誨へて居る。従つて諸法の色心は本より阿字不生で、六大四曼の体性であるとすると、何も必ずしも陰陽赤白の二渧ばかりに甚深秘密の義があるなど云つて、邪見を起さしむる要はないと喝破してゐる。

以上申し述ベたところで、一応は立川流の何たるかも分かり、又それに対する宥快の破邪顕正的議論も略ぼ知ることが出来たらう。只今日の最も進歩した眼を以てこれを観たならば、立川流なるもの果して只単に邪義として、一概に排斥すベきかどうかは大に問題であらう。特に夫の大龍とやらの「三賢一致書」の如きは、性の崇拝、生殖作用象徴の新見を以てしては、寧ろ稀有の一大文字と謂へるかも知れない。由来仏教特に真言密部には、性欲的分子を含蓄してゐることは、頗る多い様で、聖天などの崇祀の事は暫く措いて言はない迄もが、「理趣経」一巻は実に是れ性欲浄化の一大傑作であることは、誰人も異論はあるまい。本書前章は即ちそれを明して置いた。自分は夙に這の経を以て、印度教の涅婆崇拝乃歪女神崇拝と関連して考へて見たいので、尚は一歩を進めてはチヤイタヌヤ派との関係なども、闡明にしたい。即ち立川流なるものは、固より仁寛等が、吾が国に於て始めて構成したものでなく、実は印度に於て夙に存してゐたものであると看ても亦妨げあるまい。宥快もさることながら、自分は寧る立川流の研究着着その歩を進めんことを望んで已まざるもので、宥快は蒙いは豪いが、一面真言宗学を大成したと同時に、早く他面に於てこれを石化した譏があらう。哲学上理想主義も、今口はプラダマチズ厶あり、新実在論のあることなども思って貰はなければならぬ。枯骨死灰同然の老輩には、将来の活きた宗教は談じ難い哩。