韋提希夫人の話は、女人成仏の易行道を明示するものとして、浄土門では格別に珍重する様である。それは「観無重寿経」略して「観経」の開巻第一に載つて居る。「観経」は名詮自称で、釈尊が同夫人の為に、此の世に居て、西方極楽浄土を観想すべき十六通の仕方を説き示されたものであるが、如来説教の由来を明にせんが為に、右の話が大序を為して居るのである。但し斯かる次第で「観経」所載の話は左迄詳細とは云へない。尚ほその外に「増一阿含経」にもあり、「十誦律」「毘奈耶雑事」などにもある様だが、別して「涅槃経」のが委しいと見た。現に親鸞聖人の「教行信証」の信巻末にも、主として此の経文を引抄せられて居り、その「浄土和讃」の「頻婆娑羅王勅せしめ、宿因その期をまたずして、仙人殺害のむくいには、七重のむろにとぢられき」とある一首は、「観経」の讃とは云ひながら、実は「観経」にはないところである。

さて話の筋はさつと斯うである……昔釈尊在世の頃とかや、摩掲陀国の王舍城主をは、頻婆娑羅王と申した。韋提希夫人はその正妃である。然るところ久しくその間に子が出来ないので太た不満を感じてゐた。それが偶々相師といつて人相見否易者の様なものゝ説では、一人の仙人がある。その仙人が今から三年後に死んで、生れ変つて太子と成つて来るといふので、待ち遠くて甚らず、終に人を遣つて之れを殺害させたのである。さうすると間もなく夫人は懐胎して身重になられたが、やがて臨月に及んで、後相師等を召して観させると、今度生れる子に、成長の後は両親に対して、屹度仇と為るべく宿怨を持つて居る。恐ろしい事だと申し上げた。それは大変だといふ事で、分娩時には高楼を構へ、その下には白刀を植ゑ置き、産婦たる夫人は楼上から産み落されることにした。然るに好運か不運か生れた子供は命に別条なくて、只僅に一本の指を損傷したに止つた。それが阿闍世太子で、阿闍世とは未生怨の義であり、即ち未生以前より怨を懐いてゐる者といふことたさうなが、これは少々をかしい。尚ほ又その別名を婆娑羅留支とも謂ふが、この方は折指の義だとするのは、一応は聞えぬでもない。

何はともあれ幼児は固より毫もそんな消息は知らず、父王母后の浅からざる寵愛に、追々成長したが、それが不図悪友と交り出したと云ふのは、例の提婆達多の仕業で、提婆は巧言令色で以て甘い工合に、阿闍世太子に取り入り、大臣雨行と別々に右の次第を逐一話し聞かせて、太子の怒気を激し、提婆の説では太子は須らく父王を弑して、自ら大王の位に即き玉へ、提婆自身も亦釈迦を殺して、自ら世尊と成り、相共に世に臨まうではござらぬかと、教唆したのである。そこで太子は即ち父王たる頻婆娑羅を執へて、七重の室内に幽閉し、群臣一切の交通を禁断し、漸く餓死せしめようとした。然るに母后韋提希人人は、頗る貞操の正しい方とて、夫君瀕死の艱苦を想ひ遣りては、起つても居ても晏如たることは出来ず。日々澡浴して丁寧に身体を浄め、酥蜜を以て●に和して、その肌膚に塗り、尚且つ冠や頚飾りの諸の瓔珞の中には、蒲桃漿を盛つて、竊に這入つて行つて差上げられた。国王は斯くして夫人の苦心で、麺を食ひ漿を飲むことが出来たから、何日立つても毫も痩せ衰へず、容貌依然として変ぜざる上に、毎日目連尊者や富楼那尊者が神通力でその所へ参り、色々授戒や説法をして慰めて呉れるのだ、欣然和悦して些の憂色もなかつた。

太子此の事を探知して、大に腹を立て、おのれ悪つくき母親奴!汝は誠に賊の同類である、賊である、殺して呉れると、直に利剣を執つて押し掛けようとした。その時一人の賢臣月光といふのがあつて、大医の耆婆と相伴うて太子の前に進んで、恭しく謁見しながら厳に諫言を申し上げた。その詞に、昔の●(田に比)陀論の経説を聞き申したが、開闢以来色々な悪王があつて、国王の位を簒奪しようとして、その父王を殺害したことは随分あり、その数実に一万八千の多きに及んでゐるが、未た曾て母后を害したといふ無道な話は耳にいたさない。然るを只今殿下がそれをば敢てせられようといふのは、実に吾が刹利種族の名誉を毀損するものでござる。否是れは全く旃陀羅輩の卑賤な者の仕業で、もはや斯様な穢はしい場処には居りたくござらないと云つて、いざ退却と徐に立ちかけた。そこで太子はこれを聞いて大に驚怖し惶懼して、救を耆婆に求められたので、耆婆も亦屹度母上をば殺し玉ふなと諫止した。太子も今はその非を悔いて剣を捨て、而かも宮内官に命じて、母后を深宮の裡に幽閉して、復出ることを許さない。夫人は独り愁憂に甚へず、遙に耆閣崛山の方に向いて、釈尊に作礼し竊に哀願するところがあつた。それは何卒此処へも目連並に阿難尊者を派遣せられたいと云ふのであつた。而して釈尊はその心を憫察して、やがて両尊者を随へて、山中より王宮に影向せられ、夫人の懇望に応じて、極楽往生の途を具さに説き玉うた。それで夫人は無生忍の悟を開かれ、国王頻婆娑羅も亦阿那含の果を得られたと云ふのである。

尚ほ「涅槃経」に拠ると、阿闍世王はその性太だ弊悪で、殺戮を行ふことを喜び、父王は辜もないのに弑逆せられたが、やがてその心に悔熟を生じ、全身に瘡が出来て、臭穢にして誰も近寄れない。或はそれは癩病であると云ふが、業報の恐ろしさに、地獄必定と畏懼して、懊悩安眠することを能くせられない。母后韋提希夫人は親切に看護遊ばされ、種々の良薬を以て瘡面に塗抹せられた様だが、些の験は見えず、病勢は日に日に進みこそすれ退きはしない。そこで重立たる臣下は色々と慰安の諛辞を呈して、機嫌を取らうとする者もあつたが、大医耆婆は釈迦如来の教法を伝へて、只慙と愧とあるのみ、王の悪業は到底免れるに途はないと直言して憚らず、須らく速に仏の御前に詣でて、その救済を仰ぐ外はないと云つた。時に天空に声あつて像は見えないが、吾は父王頻婆娑羅なりと告げて、重臣等の邪説を斥け、偏に大医の苦諌に順へと勵めた。阿闍世王これを聞いて悶絶したが、瘡臭前より一層劇しく、毒熱愈々甚しくて、冷薬も寸効を見ない。此に於て王は衷心深く懺悔して、仏前に哀を乞ふに至つた。乃ち仏は王の為に月愛三眛に入り、大光明を放たれたが、その光が清凉で、往いて王身を照らすと全身の悪瘡は即時に癒えて跡方もなくなつた。王は乃ち翻然大悟徹底して、仏果を証したとある。尤も「阿闍世王経」や「文殊師利普超三眛」などの説では、文殊菩薩の説法で得悟したことになつて居り、又「阿闍世王問五通経」では、一旦地獄に堕ちて後更に辟支仏と成つたと見えてゐるが、そんな事は今茲に詳論しない。