先年臨済宗大学で学術の研究を主とした雑誌を出すことに成つた時に、自分も亦編纂者の懇嘱の侭に、劈頭第一に一個の小論文を提出する事にした。その論題は蛇の宗教観と謂ふので、或は更に宗教学上より観たる蛇の研究と謂ふ方が当つて居るかも知らぬ。然り而して自分が当時 特に斯んな題目を選んだ訳は、一つは恐らく誰も推察する通り、新年の歳廻りが巳であり、巳の蛇である事は「説文」にも「四月陽気巳に出で陰気巳に蔵し、万物見に文章を成す、故に巳を蛇と為す、象形なり」とあるに由つて明瞭であるので、それに因んで思付いだのは争ひ難い所であるが、併しそれはほんの誘引となつた迄で、実は一層深い学問上の様柢のあつたことを想つて貰はねばならぬ。知らず件の一層深い学間上の根柢と謂ふのは何であらう?。
それは斯うなのである。今現に伊太利に社会学者として売出しの有名なグロッパリといふ人がある。確かモデナ大学の法科大学の教授をして居る。その人の著述に「エレメンチ・ヂ・ソシオロジア」と謂ふのがあり、千九百四年再版で、誠に手ごろな良く出来た書物であるが、それは又幸に当時臨済宗大学の講師をして居た今の文学博士の高田保馬君が翻釈して「社会学綱要」と題し、大正二年の暮に逸早く東京の有斐閣から発兌して居られる。ところで該書の第二章の社会と家族との起源と云ふ中には、野蛮人とゴリラやギッポンやチンパンジーや猩々などの類人猿との、社会生活に幾多肖似の点の有る事を叙述してあるが、やがて此等類人猿が又夙に拝物教徒であるとか一神教徒であるとか、色々面白い説話が載つて居るので、其処に端なく始めて研究の着手点を看出したのである。実に「信頼すべき諸旅行家の証言に拠れば、チンパンジーと猩々とは蛇を崇拝する」とある一句は、非常に自分の興味をそゝつにものである。でそれが該研究の端緒と成つたと謂つても妨ない。
グロッパリは之れに就いて次ぎの様に説明をして居る。暫く高田君の訳文を借用すると「蛇、然り其の身体の変幻常なき巻舒と、其の破壊的なる咬みかたとを以て、恐るべき動物をも無力ならしむる。此の神秘的生物は、狭い迷信的な彼等の心には全能なる神の形にみえるのである。彼等は懇願と犠牲とを以て其怒を和げ、愛を買はなければならぬと考へる。チンパンジーと猩猩とは実に蛇の平常の通路に、其の過去の経験よりして彼の最も美味とすと知つてゐる動植物を集め捧げる」とある。何と奇妙な事ではないか。若し果してさうだとすれば、吾人の所謂宗教発生の起源は原始的野蛮人より更に以前に遡つて、猿猴類中に追尋すべき次第と相成り、平素夫のダルヰン一流の人祖論に不平と不満とを抱いて、今猶ほ陰に之れを呪つて居る古風な固陋な人たちには、なんぼう喫驚的な事であらうかとをかしくもあり気の毒にもなる。
否、類人猿宗教の事は啻に之れに止らず、更に一層奇妙奇天烈の事がある。それは「此の類人猿が神なる蛇の或地点に死んで居るのを見ると、直にこれをそこに埋め、其の墓の周囲にその生前好んだ食物を供へることである」と言はれて居る事で、而して著者は又之に就いて推論を試み、終に此等類人猿にも亦夙に霊魂不滅の信仰がある事は明瞭掩ひ難いことゝして断言するに至つて居るのは、愈々面白いではないか。即ち其の文を援くと「けだしチンパンジーと猩猩と、彼等はなほ漠然ながら精霊の不死、死後にても肉欲の残存せること、及びあの世と云ふ観念を有してるる。死したる生物のために食物を捧ぐると云ふ一事これを示して、吾人の胸中に何等疑感の影をも留めないではないか」と云ふのである。
併し只だ是丈け読んだのでは、何だか乱暴粗雑な議論の様に思はれる嫌もないではないが、著者は更に一歩を進めて、何故に斯様に彼等類人猿中に霊魂不滅の信仰を生ずるに至つたかと云ふ事に就いて、一番其の理由を明さんと企て、それには同国の矢張り社会学者であるスキャツタレラの名著に拠るのが、最も満足にして遺漏ない答弁を得る所以だとして居る。此のスキャツタレラは実は類人猿の社会的生活の研究者としては、今日世界第一と許されて居る人であるさうなが、其の説はスペンサーの轍を履んで、夢中の現象に基いて以て、類人猿の霊魂不滅や未来世界の信仰を巧妙に説明したものである。即ち此等類人猿は野蛮人や四歳未満の一般幼児と同じく、夢中の空想的生活と覚後の実際的生活とを混同し、彼等幼児が遊戯を夢みて真に遊戯したと信じて居る様に、此等類人猿も亦既に死んだ此の神たる蛇を夢に見ると、それが依然他界に生きてゐることを確信し、覚後にも猶ほ現実と夢幻とを混同して、蛇の埋葬地に食物を供へなどするのだと云ふのである。
以上が実に当時自分が蛇に就いて宗教学上の研究を試みやうとし初めた動機である。固より未だ性問題には触れなかつた。併し自分が当時それに由つて以て究明しやうとする所のものは必ずしも又此の類人猿の宗教的行為并に信仰に就いて真偽如何太だ疑はしいと云ふ点では無い。否、自分は或は軽信の譏があるかも知らんが、此の類人猿に関する諸旅行者の証言は寧ろ其の侭に受け容れ置くとして、その上に吾儕人類の原始的時代に於ける蛇に対する宗教的観念も、亦別に類人猿のそれと異なる所はありはしないかどうかと云ふ事から、一つ調べ出して見やうとするのが、本研究の目的であつた。更に精しく言へば、グロッバリは蛇の身体の変幻常なき輩に迷信せしむる所以だと云つて居るが、吾儕人類の蛇に関する幾多の迷信も亦只だ此れと同様の由来であるかどうであるかと云ふのが、本研究の最初の着眼点である。