そこで此の蛇に関する迷信の事に就いては、土俗学の成書の中には色々な記述が豊富に載つて居る様で、一々これを渉猟すれば益々面白く成つて来るのは疑ないが、併し自分が今茲で遺つて見やうとしたのは、素より毫もそれ等の成書に拠らざる独創的の研究で、従つて其の取材の範囲は主として吾が日本并に支邦に限られ、便宜上印度神話や希臘羅馬の神話に接触するに止めやうと考へてるた。
斯くて第一に明かにして置かなければならない事は、申す迄もなく吾が日本を始め、支邦や印度などにも蛇の信仰は存在して居るかどうかと云ふ事である。然り吾が日本には蛇の信仰は夙にあり、尚且つ今もまだ却々盛んな様だと謂つて妨あるまい。特に夫の七福神の唯一女神たる弁才天と蛇とは最も親密なる関係を有し、啻に蛇が弁才天の使ひ物とか乗り物とか云ふには止らず、実は蛇その者が直に弁才天の本体であるかの様に看て居る輩もある事は争ひ難い事実である。其の適確なる一証例は、夫の相模国江ノ島なる弁才天社殿には、神仏分離以前の神体だと謂つて、小蛇の幾巻きかとぐろを螺旋的に巻いて、其の上に鎌言を立てゝ居る作り物が、今現に公衆の展覧に供されて居る事である。然り而して又彼処此処の弁天祠からは今猶ほ巳の成金と称する呪符を授与して、幾多肓昧の欲張り連中を随喜渇仰せしめて居る事は、誰人もよく熟知して居る所であらう。将又他の一面では同じ様な小蛇の巻いて頭立てたるのを宇賀神として、岩穴の裡に祭つて置くのも、都鄙各所に於て散々目撃する所である。是れは言ふ迄もなく、五穀豊稔の守護神としてゞある。即ち此処では蛇の信仰の理由はよし第二義にもせよ、それは黄金の授福とか五穀の豊稔とか云ふ事で、只だ巻舒自在の姿態とか猛烈な咬噬とか云ふ事でない丈けは明瞭である。
由つて自分は先づ此の蛇と弁才天并に宇賀神との関係に就いて研究の手を着けようとした。先づ弁才天の事から言はう。抑此の神は素より印度の神であつて、日本のものではない。神話学者の説では薩囃薩伐底河を神格化した者で、従つて水神であると謂つて居る。既に水神でありとすると、それは龍とか蛇とか云ふものと因縁太だ深い者であることは、必ずしも想像に難からぬ筈である。併し実際普通仏教経文の上に見えた所では、弁才天と蛇とは一所にはせられて居ない様である。精しく言つて見ると、弁才天には二種ある様で、一つは八臂であり、一つは二臂である。八臂の方は「最勝王経」の説で、而して二臂の方は真言宗の胎蔵界曼荼羅に載する所である。但し二臂にしても八臂にしても執れも其の持ち物には蛇は見当らない。又世俗は弁天に十五童子といふ眷属を附するさうなが、それは印鑰、官帯、筆硯、稲籾、計升、飯櫃、衣食、蠶食、酒泉、愛敬、生命、従者、牛馬、船車、金財とするのぢやさうで、何時頃から言ひ出したか未だ判然するに至らないが、恐らく支邦人の手で「最勝王経」の所説などから漸く転成し来つたものと老へるが、何はともあれ支那流の思想で、福、禄、寿の三つを兼備したものとしては、右の十五項は確に立派なものと謂へる。然かもその中には蛇の事は固より毫も見えて居ない。
弁才天像には斯様に二臂と八臂の両型があるとして、それは前者は文芸の保護神であり、後者は軍神武神であると観るのが通説らしいが、二者執れが先きかと云ふことに成ると、それは恐らく八臂の武神が先だと看る方が当然らしい。但し先後いづれにしても、今日一般に七福神の一つとして絵ける所のものは、あれは純粋の弁才天ではなく、寧ろ吉祥天の面影を有して居る様で、而して斯く弁吉二天の混合は、実は最初は七福神の組立てが今日のそれとは?(しんにょうに向)に異なり、吉祥天、弁才天、多聞天、大黒天、布袋和尚、福禄寿、恵比須とした事のあるに由ると言へば、必すしもさう不思議がるにも及ぶまい。自分は吾が国では吉祥天の方が弁才天よりは先きに早く祭られたものと見る事に於て、衆説は略ぼ一致して居ると信ずる者で、吉祥天は奈良朝に最も流行し、弁才天は寧ろ之れに続きて平安朝の末季より鎌倉時代に掛けて大に流行し始めたものと観て妨あるまい。否自分は今日世間一般の弁才天像は幾分か技芸天のそれにも肖て居る所があると見た。由つて試に吉祥天并に技芸天に就いても謂べて見たが、蛇との囚縁は其処にも未だ認むる事が出来ない。
尤も又別に「仏説最勝護国宇賀耶頓得如意宝珠陀羅尼経」といふものがあつて、それに「一の神王あり、名づけて宇賀神将と曰ふ。無量劫より以来大悲大慈を修習して、一切衆生の為めに大良福田となる。其の形は天女の如く、頂上に宝冠あり、冠中に白蛇あり、其の蛇面老人の如く眉白し。又此の神の玉身白蛇の如く白玉の如し」とあるに拠つて、宇賀神将やがて弁才天なりと看做すならば、それは白蛇との関係も容易に親密と成る訳だが、是れには議論があらう。
偖て又宇賀神将を食物の主神たる宇迦之神魂即ち稲魂や食称魂と称号の相似より同一視したのは、必ずしも怪しむを須ゐないが、併しそれは後世の事で、必ずしも仏法渡来の初より然りと云ふ訳でないらしい。「神道名目類聚杪」は神禄、幸を祈る神事を宇賀神祭と謂ふとある。民間に蛇を宇賀神とし福神とするは「看聞御記」に見えて、之より転じたるならんとの説もあれば、右の「仏説陀羅尼経」と云ふのは和製の為経だらう。果して正か為か、疑ふべき余地は十分に在る。宇賀の梵語はuhaかと云ふが、折角高楠博士等校閲の「仏教大辞典」にも未定とある。恐らくugara即ち龍蛇であらう。
要するに自分は世間一般に行はるゝ弁才天の像は、吾が国で年所を閲しつゝ漸く構成したもので、仏教固有のものとは考へぬのである。併し又面白い事には、此の弁才天像の沿革が何となく希臘の女神アテーネ像のそれに似て居る事で、弁才天とアテーネとの比較は随分細かい所まで推して行けば行かれもするが、何はともあれ此の女神も最初は寧ろ軍神武神であつたらしく例へば伊太利のヴイラ・アルバニーやナポリのミュゼウムにあるものはそれで兜を冠り槍や盾を持ち、胸当を附けて居るが、此の胸当はエーギスと呼ばれ、龍の鱗を畳みて、数頭の蛇を以て縁を取り、而して其の真中にメヅサの恐ろしい面が着いて居るもので、此のメヅサは誰でもを嫉んで石に化して仕舞うと信ぜられて居た者である。即ち此処には蛇も亦龍やメヅサと共に素より恐しい物として飾られてあるのは明白であらう。嫉妬は性欲発動の最も猛烈なる心状で、それに破壊の甚大なる力もある。然るに羅馬のヴァチカノのミュゼウムにあるものは、早や余程平和的の相好となり、更に同市のカンフォドリオのミュゼウムにあるものや、巴里のルーヴルにあるものは、全然平和の神となり、文学工芸の保護神と成つて居て、復嫉妬らしいところはなく、此処にも亦蛇は其の附きものとして尚ほ存して居るが、それは今は頭冠の製飾と成り智慧の象徴として置かれたものだと謂はれて居る。弁財天とアテーネと彼も此も女神である所は、蛇と女性との関係を髣髴せしむるに足るが、此等両神は最初は共に武神的であつたのが、後には漸く平和的と成り、文学工芸の保護神と成るのは太だ好く似て居る様で、而して弁才天像に附加せられたる蛇も亦其の智慧の表象であると看て看られない筈はないとすれば、早くも其処に蛇の性欲から脱化して、一種特別なる功徳的象徴はある事と成る。乃ち之れに関連して起る疑問は、蛇は又何を以て智慧の象徴と成るのかと云ふ事で、而して又夫の宇賀神の五取豊稔と蛇との関係は何に出るのかと云ふ事も、同じく問題として考へて置いて貰はなりればならぬ。