最近に文学士姑射良氏の翻訳出版したマルチンの「印度の神々」の中には、動植物神話の章中、僅許り蛇の事を謂ひ、而してそれは恐ろしい咬傷を加ふるものとして恐怖せらるゝものとしてあるに過ぎない。それから少々古いが姉崎博士の「印度宗教史」の動植物崇拝の篇には、之れよりは稍精しく蛇の事が書いてある。其の説では蛇の話は早く吠陀時代に其の痕跡がある。それは因陀羅の敵たる暗黒を表するに蛇を以てしてあることである。併し実際蛇の観念が印度、人の思想中に顕著と成り初めたのは、北方民族侵入後の事と断言して憚らない。此等北方民族中には龍蛇即ち邦伽又は徳又伽を族名とせるもあり、市府の名とせるあり、畢竟龍を祖先として崇拝して居た為で、従つて富蘭那の大叙事詩の始めにはジヤナメジヤマ王は蛇を退治せんが為に、大々的犠牲を行うた事が叙べてある次第で、最初は最も龍蛇を憎悪したが、而かもやがて民族の混淆の為に、いつとなくそれが印度宗教の中に入り来り、仏教や耆那教の中に於て相応に債置を占むる様に成つた。それが延いて支那日本に及び、益々重要の部分を為し来つたのであるとする様である。

斯くて姉崎君は更に龍に関する神話を約一頁掲げ、龍王や其の都城の事を始めとし、毘●●に千頭蛇の従者あり、●婆は五頭龍として表象せらるゝに至り、印度教にも漸く龍蛇の崇拝はあるが、併しいづれかと言へば憎悪の方が強い。然るに仏教は之に反対で、寧ろ龍と親近の関係あり、龍を以て仏教の守護者なりと看做せるも少からず、それは或説で釈迦族の民族的関係に由るとも見られるなど言つて居る。即ち是れは龍のトテミズム論で太だ面白いが、それは余談に亘るから暫く措かう。

左に右龍の話は仏教経典中に頗る多い事は事実である。八歳の龍女成仏の事や、龍樹大士が大乗の経典を龍宮城に得たなど云ふ事は、一々列学に暇がない。別して「正法念経」の中などには龍の学は最も精細に記載して居る。併し同経では素より之れを「畜生品」中に置いてある事は注意せなければならぬ事であると共に、件の畜生品中にも蛇そのものゝ話は殆んど無いと云ふ事も亦注意せねばならぬ。強ひて穿鑿すると、地獄人の苦惱を叙する所に、獅子、虎豹、大鳥悪蟲と並べて蟒蛇を掲げ、大悪色にして畏るべき者とし、其の迫害する所となる事を謂つて居る丈けである。即ち蛇としては矢張り極原始的観念で例の咬傷を主眼として居るとしか見えぬ。

勿論龍と蛇とそれは殆んど同一視したものと見て差支あるまいと思ふ事は、同品にも非法行龍王は蝦蟇を呑食し、沙土を敢食し呼吸して風を食すと言ひ、其の業因を仔細に説明してあるのでも分かる所で、蝦蟇を呑食すると云ふのは実に蛇の特徴である。併しそれにしても蛇とも龍蛇とも言はずに龍王としてあるを見ると、仏教にも亦矢張り蛇の宗教的存在は太だ微少であると謂つて妨なからうか。尚ほ密教にも九頭龍の印相あり、愛染明王や倶利迦羅明王に剣と龍の象徴はあるが蛇はない。或説に不動明王の索は龍より転成したのだと言ふさうなが、それならば蛇の事と観られんでもなからうが、左に右龍と謂つて蛇とは謂つて居ない。「雑密言経」に一大龍王あり、一日に五百の小龍を食すとあり、是れがやがて煩悩の毒龍を食ひて衆生を利益するとの義ぢやさうなが、此の場合の小龍は蛇と看て然るべきだらうが、併し此処でも矢張り龍と謂つて蛇とは謂つて居ない。而して龍に煩悩を言ふ例は、尚はその性欲猛烈なるものとの観念が残つて居ることは明かであらう。

偶々座右にあつたヰルキンスの「ヒンズー・ミソロジー」を繙いて見た。是れは千八百八十二年の出版だから、既に年久しいものだが、吠陀并に富蘭邦変方に亘つて詳述したる所は、固より決して前掲マルチンの本や姉崎君の書物とは同日の談でない。今でも依然立派な参考書であらう。同書第三篇低級神祇の第七章に神聖なる禽獣を説いて居るが、蛇の事はガルダと蛇との争闘を詳述する丈けである。即ち蛇は非常に凶悪の物と看て居る様で、ガルダの頸飾は蛇で作られて居り、それはガルダ自ら殺したものだとしてある。従つて印度人は毎夜就眠前三度ガルダの名を唱へると、蛇の侵害を免れる呪と成ると信じて居るさうな。想ふに此のガルダは密教の所謂加樓羅天で金翅鳥の事である。而してそれは「大疎」に「止観羽を奮つて人天の龍を搏つ」とあると書いてあるのを見ると、彼れ此れ思ひ合せて龍即ち蛇と看て差支ない事も明瞭だが、併しそれでも仏教では龍と謂つて、蛇とは謂つてない事を注意する。

龍蛇の争ひが図らず長くなつたが、暫く之で措いて、一寸巳の成金の事を考へて見やう。抑この巳の成金と謂ふのは、巳即ち蛇が化けて黄金と成るといふ意味だらうと解するが、それは仏教の所説ではなく、全く支邦で出来た干支五行の陰陽繊緯説から起つた俗見に過ぎなからうと思ふ。尤も希臘の神話には、昔から蛇が化して石と成る伝はある。それは「イリアッド」の中に蛇と群雀と相争つて居るのを望んで、ヂユースが秘法を用ひて忽ち蛇を石化し去つたと云ふ事である。併し石化はあつても金化は見当らぬ。デ自分は此の巳の成金の迷信と夫の「南史」にある粱武帝の元洲に幸して銭龍を見、大に恐れて銭十万貫を其処に鎮めて之れを禁厭した話や、「広異記」にある長安至相寺仏殿座下の蛇処に夜光珠を得て千貫の価あるとて売つた話やを始めとし「杜陽編」にある黄金蛇の話、さては唐の「景龍文館記」にある長安城東の興慶池の由来訳に蛇の黄金を惜んだ事などは、皆之れに多少の因縁がある様に考へるが、別して「地鏡図」と云ふ陰陽道の書物に「金宝化して青蛇と為る」とあるは適確の出典と看たい。語を約して云へば弁才天の巳成金は矢張り一種のペトリフイカション即ち石化神話と看て宜からうと思ふのである。

次に蛇が宇賀神で五穀豊熟の福利を施す事も同じく一寸考へて見やう。「塵袋」の一に「蛇を今の世に宇加と云ふは、宇加の神の蛇の形に変じて人に見え給ふ心か。実の蛇は何ばかりの福分かあらん」と云つてあるのは一応は尤な様に聞えるが、宗教学の見地の上からは、矢張り蛇 と五穀の関係を先きとして観て行かなければならぬ。そこで東西色々の書物を渉つて見たが、別に好い例も見当らない。只だ「字説」に「稗海の地三年蜀黍を種、其の後七年蛇多し」とあるのは何か関係のある様にも思はれる。否最も好い例は亜米利加のアリゾナ州のモキースMoquisといふ処には蛇踊といふのがあり、鈴蛇を手にして面を冠り踊り廻はるので、それは一面はトテミズムでもあるが、又一面は由つて以て土地の豊穣を祈るのだと云ふ事が、千八百八十四年倫敦発行の「ザ・スネーキダンス・オブ・ザ、モキース」に書いてある。斯くすると蛇使ひに更に神秘な役目が附加せらるゝ訳だが、自分は矢張り蛇否寧ろ龍蛇と雲雨河水等の関係で、蛇を水神視する所から、此の五穀豊稔は来て居ると看たい。而して之れよりして宇賀神は蛇神として、水神弁才天女の夫婿たりとの説も出来る。其処には矢張の性の事が主に成つて居るらしい。

併し斯んな風に蛇を五穀豊稔の守護神とするのは、後世の事で、原始的昨代では却つて田畑を荒らし耕作を邪魔する愚者と視て居た様だ。それは「常陸風土記」行方郡の巻に夜刀神の話があるのを見ても分かる。夜刀神は蛇で、昔箭括氏の麻多智といふ人が、郡内西谷の葦原を開墾して新田を治めやうとした時に、件の夜刀神が数多の眷族を引連れて邪魔して困った事が書いてある。そこで麻多智は大に立腹し、之れと戦うて或は打殺し或は追払つた末に、山の口に標柱を建て、神地と人田との境界を明にし、而かも自ら神祝と為つて永代敬祭するから、どうか祟をするな恨を懐くなと言つて、それから其処に社を設けて子孫之れを相承して祭を廃さない。それは継体天皇の御宇の出来事である。しかるに其の後孝徳天皇の御時に及んで、壬生連麻呂といふ人が、其の谷を占領して池堤を築かんとした際に、復た夜刀神が池辺の椎樹に昇り集って、色々邪魔をしたので、麻呂が大声で堂々と理窟を主張したところが、流右の蛇神も道理に服して、避隠して仕舞つた。今の椎の井は即ちその池の名残りであると云つてある。是れは面白い。夜刀の名辞は性欲との関係はありはしないだらうか。