要するに弁才天にしても宇賀神にしても、福利的蛇観はそれは遙に進んだ考へで、後世に漸く出来た蛇神であるとすると、議論は更に一歩逆戻りして、先づ原始的蛇神観を顧みねばなるまい。それに就いて吾が国で蛇を明に神と崇めたのは、右の夜刀神の話と同じく、「常陸風土記」にあるのは妙と謂はねばならぬ。尤も是は新治郡に係つての事であるが、同郡の駅名に大神といふ所がある。それは大蛇が多く居るから左様に名づけたのだとの事である。大蛇を大神と呼ぶのは実に面白い。而してそれが郡名の新治郡であるとすると、是れ亦当初新旧墾治の邪魔をしたものである事も推測して間違ふまい。偶、斯んな材料を供給せられた丈けでも、風土記の吾儕土俗学研究には非常に利益あるものである事が分かる。而かも其の多分の早く散逸して伝はらないのは残念と謂ふも愚なりとや曰はん。
否啻に風土記ばかりでない。「日本書記」にも亦蛇を山神と看た例は麗々と二個所ほどある。其の一は雄略記にあるので、同天皇七年七月少子部連螺贏に詔して、三諸岳の神の形を実見したいが、卿は膂力絶倫だから自ら行つて捉へて来いと命ぜられたので、贏は早速三諸岳に登り大蛇を捉へて復命したところが、天皇畏れて口を蔽ひ見給はなんだとある。而して八の二は景行記にある。大和武尊が近江伊吹山で山神の大蛇に化して道に当り其の毒霧に中てられた話で、是れは三尺の童子も夙に熟知して居る事である。今此の両例を比較すると、前例は蛇そのものを直に山神とし、後例は山神が蛇に化したのだとし、尚ほ尊は当初之れを山神の使としか考へられなんだと云ふので、宗教学上より判ずると頗る念が入つて居り、進化の程度の高いものと成つて居る。尤も此の日本武尊と云ふ方の御一生は憚ながら実は極めて神話的で、殆ど歴史譚とは思はれぬ事が多い様だが、此の大蛇に似た話は支那には沢山ある。古い所では「浅書」に高祖が夜沢中を行きし折柄、大蛇の道に当つたのを剣を抜いて斬り殺した話である。又稍々新しい所では「豫章記」に永嘉の末年に呉猛と云ふ勇士が、大蛇の道を断つて旅客を悩害する者を退治した話もある。只だ支那のは大抵人が蛇に勝つのに、吾が日本武尊は人が蛇に負けたのは一大相違である。何はともあれ此の膽吹山の大蛇の扮本は「淮南子」などにある●(にくつきに発)蛇が大分お手伝をして居る事は疑ない。左に右上古は蛇が害毒を施す為に神と崇敬せられて居たと云ふ事はそれで分かる。
但し斯く単に人を害し田畑を荒すから蛇を恐れるなど謂ふは、極めて原始的な事で稍々後の世となつては、それよりも寧ろ蛇その性邪悪にして樋めて婬乱であり、由つて色々祟を為し、特に化りて悪戯を為すと云ふ点に重きを置かれて居る様だ。是れはグロッバリーの類人猿の蛇崇拝の理由中には固より無いが、吾が国で蛇の祟りの話や、蛇の化けて来る話は、平安朝以後の雑書には太だ多い。別しては例の「沙石集」などを見ると、幾つも面白い例がある。同集七巻の下に、下野の国の或る俗人が大蛇の頸を強く射着けたので、家に帰り果てずに頓に狂死した事など、一々言ふに暇ない。又同巻に下総の国の大なる沼の主たる蛇が、母なる女の十二三歳許なる織女を其許に参らせんと云ひたる言を信じて、女の家を襲うて之れと婚合した話や、遠江の国の或る山里の政所を務めて居る俗人が、仙行の隙に五六尺ばかりの蛇が昼寝の妻に纏ひて口さし付けて臥した話もある。此の織女の話などは確にそれより更に一歩を進めたならば、夫の山城相楽郡なる蟹満寺の縁起にある様に、蛇が男子に化けて来る話と成るだらう。
想ふに此の類の迷信は、支那の中世以後の雑書には更に多い様で、「搜神記」や「塊雅」の類を繙くと忽ち多く発見することが出来る。従つて吾が国でも又中世以後の仏教徒が之れに藉りて宿業の教理を訓誨すべき因縁談の種とした事は、明瞭であるが、併しそれは強も支那から転借したもの詐りでなく、実は昔からある。「古事記」にある出雲の簸川上の八俣の大蛇の話は、蛇そのものが直に櫛稲田姫一家の美女を襲ひ、之れを喫はんとする蛇淫性の極原始的の形態であるが、「日本書記」の崇神記にある大物主神が倭迹々百襲姫命に通はれたのは、蛇が美男に化けて来た事に成つて居る。此の蛇は御諸山に登つたと云ふ事に成つて居れば、前に掲げた雄略記の三諸山の神体たる大蛇と同じ訳だが、併し姫の懇望黙し難く其の実形を示さんとした時は、榔笥中の美麗な小蛇であつち。大蛇でも小蛇でも左に右に官幤大社大神々社の祭神は此の説では蛇である事は、十分注意しなければならぬ。然り而してそれと共に吾が国には流石に龍の話は太だ乏しい事にも注意して貰ひたい。
尤も蛇は男と化けずして女と化ける事もある。又女が蛇に化ける事も少くない。是れは嫉妬深く執念深い者として、後世の物語は多くさう成つて来た様だ。就中最も人口に膾炙して居るのは、夫の紀伊国の鐘巻道成寺の縁起にある清姫の話で、面してそれ程よく人には知られて居ないが、山城愛宕郡の大原村やらに在る蛇道心寺の縁起は妬婦の死して小蛇と成り、夫なる者の頸辺を巻いて離脱せなんだ事を伝へて居る。此も彼れも固より執れも仏者の作り話ではあるが、併し自分は又夙に右の道成寺清姫の蛇物語の遠祖は「古事記」の垂仁記にある品地別命と肥長姫の話に出て居ると観て居る。即ち本文には「爾其の御子一宿して肥長比売と婚す、故に竊に其の美人を伺へば蛇なり、即ち畏れられて遁げて逃る、爾其の肥長比売患ひて海原を光せ船より追ひ来るが故に、益々畏れられて、山の多和より御船か引越して、逃げ上りて行けり」とある。尤も更に遡つて神代記に到ると、豊玉姫が鵜葦葺不合尊を産む時、産室内で蛇に成つて居た話もある。知らず此の龍宮族も印度の那伽族同様、一種の龍をトーテムとして居るものではなからうか。今茲にそれを一々詳論する暇の無いのは残念である。
偖斯様に蛇を婬乱のものと観るのは果して那辺より来た迷信であるか、一寸分らない。併し自分は是れはそれが数々寝室に出入し、閨閣内臥床の辺に蜿蜒たり委●(しんにょうに缶)たり、時には女陰に頭を挿む事さへあるより言つたものと断定したい。尤も支那の「潜確類書」には「蚋蛇性淫なり、南越の人之れを取るには率ね徒手紅娘子を呼び、或は婦人の●衣を投げて之れを覆ふ、則ら伏して動かず、人に牽●(手偏に牽)屠剥せらる」とあるのが事実だとすれば、又自ら別論である。否此の蛇の淫性の事は昔希臘でも蛇はヂュースの愛欲の表現として撫愛されたと云ふクレメンス・アレキサンドアリスの記事と自ら関係する所ありと云へば云へもする。而してそれが又弁天才にも女神と附属せらるゝ様に成り行くのも満更ら囚縁が善いとは想はれない。尤も性欲的神話等では一般に蛇をば男根の象徴とする様で、それはその形状にも由り又生の執着に於て頑強執拗なるに木づくとする。