そこで自分は如意の何であるかを明にせんには、寧る他の之れと似た道具類と較べて見るのも亦確に一つの方法であらうと考へた。
成る程如意は笏と太だ好く相似て居ることは承知する。知らず笏は何であらう。此処にも亦便宜座右の「言海」を披つて見た。その説に拠ると、笏の音は忽(こつ)なり、骨(こつ)に通ずるを忌みて、笏も物を量れば尺(しゃく)の音を借りてしやくといふとぞ。或は云ふ笏尺の略にて、一笏は一尺なりと。束帯のとき右手に持つもの。牙又は一位木(いちいのき)或は桜、柊等の薄き板にて、長さ一尺二寸幅二寸許、尚は位に因つて差あり。元は事を書して忘るゝに備ふるものなりと云ふと。此の説はどうも首肯しかねる。一笏は一尺との説も只だ便用に過ぎないことは明であり、備忘も矢張り一種の利用に外なるまい。それは猶ほ「論語」に子張書二諸紳一とあるが如し、これを紳に書くと訓ずるが、紳は縉紳の紳で帯の重あるものといふことである。然かもそれは一時の便利で、紳は固より決して備忘の文房具では無い。
由つて更に漢籍類に一二当つて見ると、笏呼骨切音怱、一名手版、品官の執る所なりとある。而して「礼記」には天子は●(玉編に膠のつくり)玉を以てし、諸俣は象(牙)を以てし、大夫は魚須を以てし、竹を文り、士は竹を以て象(牙)の本とすと定めてある。「説文」には●文を案ずるに●に作る、象形文字で、その義は佩である、公及士の摺さむ所なり。「芸文備覧」には●は本来象形字であるが、後人が士の竹を用ふる所より、竹に从はしめて笏にしたのであると見える。それも一応は聞える様だが自分は又更に竹の無い勿字の何たるかを調べなくてはなもぬと考へた。而してそれは「説文」には州里建つる所の族なり、其の柄に三遊あるに象る、雑帛にして幅は半異なり、以て民を趣むる所といふ風に見えて居る。是れではとんと話には成らぬ、知らず笏は元来何てあらう。
笏の事はそれ丈にして措いて、自分は更に転じて此の如意と極めて近い関係のある僧房の道具を一瞥して見様と思つて、先づ払子に向つた。払子は倭名は蝿払であり又払塵とも書く。塵埃を払ふものと見える。併しそれ丈けでは法会の節之を用ひ、別して秉払(ひんぼつ)など云ふ儀式のあることが分らない。「古事類苑」に引いてある「温故新集聞書」の七には「秉払とは払子をとる意にて此事を勤をはれば長老になる也、其しるしに払子を渡す也」とあるを見ても、大切な道具である事は分かる。同じく「類苑」に引いてある「書言字考節用集」の七には、塵尾と書き、塵は音主なり。陸田云はく、鹿の大なるを塵と曰ふ、群鹿これに隨ふ。塵の往く所を視、塵尾の転ずる所を以て準とす。古の談者馬を揮ふ良に之れが為なりとあるは、稍々進んで居る。但し文中の揮馬は揮焉の誤で、これを揮ふと訓ずべきであらう。否更に一歩を進めて「倭名類聚称」には白払(ひゃくほつ)と書き、「千年経」を引いて、若し身上の悪障難を除かんとするならば、当に白払に於てすべしとある。是に至つて漸く話の順序がついて来る。所謂「千年経」は「千手駄羅尼経」で、流通本の「大悲呪」の事であらう。
払子に続いて自分は又夫の釈杖をも見た。「類苑」には「真俗仏事編」を引き、それには又「毘那耶雑事」を援いて、是れは元来托鉢の時に曳き鳴し行くもので、昔仏在世の時、比丘輩が乞食して長者の房中に入るときの合図に振る為拵へられたものだとしてある。例の「釈氏要覧」には又「錫杖経」に拠つて叮嚀に説いてある。則ち仏比丘につげ汝等応に錫杖を受持すべし、所以は何ぞ、過去来現在、諸仏皆執り給へる故なりと云ひ、又智杖と名づけ、又徳杖と名く。智行功徳を彰顕するが故なり、聖人の表幟、賢士の明記、道法の幢なり。迦乗仏に白さく、何すれぞ釈杖と名くる。仏言ひ給はく、錫は軽なり、是の杖に倚依して煩悩を除き三界を出づる故なり。錫は明なり、智明を得るが故なり。錫は醒なり、苦空三界の結使を醒悟す。錫は疏なり、謂ふこゝろは持つ者は五欲と疎断するが故なり。「五百問」には又錫を持つ者は多事のとき能く悪蟲毒獣を警むるが故なりとあると云ふとである。而して「倭名称」には「十品経」を引いて、錫杖亦智杖とは名づく、聖智を彰顕するなり、亦徳杖とも名づく、功徳本を行ふなりとある。斯くて最初の物質的解釈は漸く精神的となり道徳的となることが分からう。「錫杖経」は「得道梯鄧釈杖経」の略であり、「小品経」は言ふ迄もなく羅什訳の「摩訶般若波羅密経」の異名である。「五百問」は「仏説目連問戒律五百軽重事」の事であることは念の為に註して置かう。
釈杖の話は是れ位に止めて、最後に夫の独鈷に一す立ち入らう。三鈷五鈷亦これに準ずる。鈷は股の借字ぢやけな。此等総じて金剛杵といふ。素、印度の兵器であるのを、真言密教では之れを仮つて堅利の智以て煩悩を断じ悪魔を伏するを標する。「大師雑問答」に「三鈷印則三仏三昧耶身、独鈷是一仏三昧耶身也」とある。果して然らば此処にも物質的より精神的に移り行く事はよく分かる。表象々徴は大方そんなものであらう。
斯くして払子や釈杖や乃至独鈷などの事は別に不思議は無いとしても、肝腎の如意の事はまだどうも判然としない。蝿払が除障の白払と成り、講論掬麾の塵尾と成つたのはそれで分かり、托鉢合図の声杖がやがて智杖徳杖と成つたのもそれで分かり、別して兵器の金剛杵が三味耶身を表はす独鈷三鈷などと成つたのも明白だとしても、どうも爪杖の如意が論議問答の上に左様に重んぜられる訳は解しかねる。笏に至つては尚ほ更である。是れではなもぬ更に一番研究の方針を立て易へねばなもぬか知らない。