二(伊邪那岐命と伊邪那美命と二柱の神達が)

伊邪那岐命と伊邪那美命と二柱の神達が、天瓊矛を以て、天浮橋に立ちてかき鳴らして、引き上げ玉うた時に、その矛の末より垂れ落つる塩が、累積して游能基呂嶋が出来たと云ふのは誰でも直ぐに男女和合の始末を連想せしめるだらう。矛が陽物の象徴と看られることは不思議 はない。天津橋は船の様にもあるが、夢の浮橋なども考ヘ合さずには居られない。さて二神はやがてその嶋に天降りまして、天の御柱を看立てゝ、八尋殿を建てられたと云ふのだが、此の天の御柱亦同じく生殖器崇弄の象徼があることは掩ひ難い。英語で申さばヒラーかそれとも●ールの方か、総じて神道では神々を数へるに何柱と云ふことにも亦注意を要する。此の事に就いて本居宣長も亦さすがにそれとなく、古事記伝中に述ベてゐるからをかしい。曰はく男女交合の状、男は上に在つて天の如く、女は下に在つて地の載するが如し。男は家屋にては屋根にて、女は床なり。柱はその中間に立つて、上下を固め持つ物なれば、夫婦の間をも亦固め持つの理かと。八尋殿は妻籍の家屋であり、伏屋であり、廬屋である。二神身体形成上の合不合と過不足との問答は、極めて露骨で、天真爛漫とでも謂はうか、一寸他には多く類例がない様だ。女神右より廻り、男神左より廻るは、当時男女左右の別を思はしめる。例ヘば夫の伊予の二名嶋を生みたまへる時に其嶋に四面あり、北面して右の讃岐は飯依比古と謂つて男性であり、左の伊予は愛比売と謂つて、女性である。又南面して右の土佐は、建依別で男性であり、左の阿波は大宜都比売で、女性であるのを参考すれば分からう。将又女人先言は良からず、男子先言せざるベからずと云ふのも、早く男尊女卑の俗が出来かゝつて居た時の古伝たることを偲ぶに余りあらう。水蛭子と謂ひ淡嶋と謂ふは、固より共に早産不成熟児の形容のみ。後世蛭子ととを混同するは、前にも陳ベた通り一大過誤なりと断言する。久美度は旁註に陰所とあるが、寝室の義に見るが穏当か。久美は許母理の約だと云ふことにして置かう。

さて茲に一寸余り人の気の附かない事がある。それは二神の次第々々に生み玉うた嶋々にはそれぞれ男性或は女性の神名様のものがつけられて居るが、さればと云つて、その国々の神社としては、殆ど一ヶ所も斯かる神を祭つた所が無い様に見えることである。暫く右に例に挙げ た伊予の二名嶋たび四国に就いて見ても、「延喜式」所載の阿波国の神名帳には大宜都比売社にはない。同国五十座中で名神大は三座だが、それは大麻比古社と忌部神社と天石門別八倉比売神社とである。八倉比売と大宜都比売と果して同視すベきか如何。名西郡神領村一宮大粟神社は、今は主として大宜都比売を祭ると云はれて居るが、それも明治維新の際の書上には、埴土女屋神社とし、従つて今尚ほ一郷社格たるに過ぎないと郡志に見えた。讃岐国には名神大は田村神社と城山神社と粟井神社との三座で、その外に小は都ベて二十一座あるが、飯依比古神社は執れにもない。或は鵜足郡の飯神社をそれに当てゝ見れば見られる様でもあるが、如何なものであらうか。伊予国は大七座、小十七座併せて二十四座ある中にも、愛比売社といふはない。土佐国は僅に大一座、四小座だが、大は都佐神社と謂ふか、固より建依別を祭神とはして居ない。而して他にも亦それらしいのは見当らない様た。爾余大小諸嶋これより推知されやう。讃岐の名は旧説では、或は狹貫とし或は竿調とするが、愚考では事ろ竿ぬきで、俗に所謂抜身だとするはどうか。