五(火神の出産に伊邪那美命の御陰が炙かれて、)

火神の出産に伊邪那美命の御陰が炙かれて、終に朋御したと云ふのは、どこ迄も生殖神話を徹底したものである。凡そ這の火神の一条は「芸文」(大正九年一月)に山田孝雄氏の書いたのが最も見るに足る様に思はれる。山田氏は女神が火の子に焼かれて死なれたのは、木片の摩擦に由つて発火し、而もその木を焚焼する態だとし、その後色々の成行は火山迸裂に由つて説明しやうとして居る。それは今此には自ら別論とする。陰門損傷の話は、天衣織女が天照大御神の忌服屋に於て従業中、速須佐之男命に驚かされて、梭で以て陰上を衝いて死んだ事もある。之 れに反して又最もをかしな話は、大神が岩戸籍りし玉ヘる際に、天宇受売命が胸乳を掲げ出し、裳の緒を陰門に垂れて、滑稽の身振をした事を挙げよう。南津土蛮の踊に肖たところがある。陰門の古名はホトである。含処(ホト)の義かといふが、或は火戸かとも想はれる。或は陰阜の小高きを指した様でもある。

「古事記」には例の鶺鴒の話はないから詳には言はないが、それにしてもこれと似た伝説が、台湾最南端の紅頭嶼の土俗中にもあるといふことは珍しい。それは何でも島の東方にボトルとか呼ぶ一小島があり、其処には天地開闢の初、アボクラヤン、タリブラヤンの陰陽二神が天降りて、偶々岩上に雌雄の小鳥が尻叩きをするを望見して、始めて相婚媾せられたといふのぢやさうな。これは総督府か何かの調査報告書中に出てゐた。而して該小鳥はホワクといふとあるが、書紀の一書には鶺鴒にニワクナブリの傍訓が施されてゐるのを見ると、ホワクとニワクと何だか同じものゝ様な気がしてならない。

伊邪那岐命が黄泉に赴かれて、殿内に進入せんとするに方り、湯津々問櫛の男柱一つ取りかぎて、燭を手にして行かれたといふ男柱の文字に目が着いた。而してその追はれて逃げ出る時に、投げた御鬘からは蒲子が生じ、又櫛からは笋が生じたといふのも、頗る面白い。蒲子はエビともエビカヅラノミとも訓じてある。字書に●●とか葡萄とかに同じともある。海老蔓と書くが分かりよい。その葉の上面は不滑にして短き軟毛を生じ、下面は茶褐色の綿毛密生す、裂片は分裂することなくして長楕円形に、鋭頂なし、又羽状尖裂を為すとあるは、或は女陰の形容と看られはせずや。笋が陰茎の象徴たるベきは喋々を待つまい。

女神が一日に千頭を絞殺せんと云へば、男神は又一日に千五百の産屋を立てんと云はれ、是れよりして人は一日に必ず千人死ねば、又一日に千五百人生れて、次第に繁殖するなりと説明してある一段は、或は見方に由つては、女神本位かも男神本位ヘの移り行きを示したものとも見られずや。凡そ此の比婆山よりして伊賦夜坂辺の地理は、自分十数年出雲大社主典広瀬鎌之助氏の嚮導に由つて、親しく踏査し、延いて熊野大社に及んで、大に得るとこるがあつたが、茲には詳説に暇がない。

それにつけても早く此処に死穢を忌んで禊祓せられるところはあるが、産穢の事はまだない。

或は後に海神豊玉毘売命の産殿の一条をそれに当てゝ見ることは、出来るかとも想はれるが、終に月経の事は未だ見当らない。否月経の事は日本武尊が東征の帰途、尾張の国に於て、美夜受比売の●衣の裾に附きたるを見られて、戯に歌をよまれたことはあれども、さりとてまだ格別穢くは見てゐられない様である。因に自分は曾て仏教の比丘比丘尼の繁難なる戒律を一々調ベて見た時にも、月経を不浄とする事は看出されなかつた。総じて仏教の経典には此の事は殆んど絶無らしい。吾が神典には日本武尊の一条だけでも早く出てゐるのは、遉に生々主義とて 有難いと謂はうか。