綿津見神と筒之男命と各々上中下三柱宛、橘の小門の禊祓の際に成り出でたとある。是れも亦或は陰陽対偶かどうか。綿の字と筒の字とは、何となく男女生殖器の象徴らしくも見えるではないか。これに引き続きて天照大御神、月読命並に建速須佐之男命の三貴子も生れましたのである。大御神は左の御目よりし、月読命は右の御目よりしたといふので、いよく前掲の通り女を左とし男を右とすることは確に成らう。或説に大御神を男性にましますなど云ふものは、断じて僻説とする。或はこの左右の一条は、漢字明の製方に由るなどいふものもあるが、それは暗合で取るに足るまい。然り而して夫の男性中の男性たる須佐之男命が、御鼻より出来たといふに至つて、性的神話学の所説は益々確められるだらう。蓋し鼻は猶ほ天柱のごとくに重要視せられ、従つて又鼻の中隔に孔を穿つて珠貝を飾ることは早くあると共に、重罪に鼻を殺ぐことも昔はあつた。俗に鼻の大小と男根のそれと正比例し、口の広狭と女陰のそれとも正比例するなど云つて居るが如何だらう。
天照大御神の御事は、畏しければ多くは申さずに措かう。古来大神か日神と視るところから、近頃は又天岩戸籠りの一条は、或は日蝕に因る天文神話ぢやなどといふものもある。然も又生殖神話からは、之れを産殿に閉ぢ籠られたのだなどと附会するものもないではないが共に如何あらうと恐懼に堪ヘぬ。大御神と須佐之男命とは正しく御姉たり御弟である。誓約はあつても婚媾のないのは、早く倫理道徳の遉に高く進んでゐたことを仰がねばならぬ。何はともあれ伊邪那美命が伊邪那岐命を呼び掛ける時も、我那勢命なれば、天照大御神が須佐之男命を指しても亦、我那勢命と呼ばれてゐることは本居氏も遉に喋々してるる様だが、社会学上注意の値があらう。剣が男根の象徴であり、玉が女陰の象徴であることは、他所にはその例が少くないらしいが、此処には必ずしも拘泥する要はあるまい。斯して男女諸神各々気吹の狭霧の中に成り出で玉うたといふのは有難い。気吹は呼気である。凡そ気息は生命の本源として、格別に尊重されたことは、固より吾が神典ばかりでない。只此処には女神から男神のみ生れ、男神から却つて女神のみ生れてゐるのは妙だ。何か説明も附かうが、そこ迄は推測しまい。強ひて言ヘば、是れにも尚は母系本位は見えてゐると申さうか。それよりも爾時に須佐之男命が、大御神に向 つて、我が心清きが故に我が生みたる子は手弱女を得たので、我が勝つたのだ白されたと云ふのは、軽々看過する訳には行かない。是れで観ると、女人は罪業深重などいふ仏者の所説は、我が国の本来の思想でないことは明である。手力男神は固より男性だが、布刀玉命も玉と謂つても女性ではあるまい。尻久米縄の尻の字は何となく耳に触るなど云ふのは、畏れ多い事だらう。
須佐之男命出雲の肥河(簸川)の辺に降り来られた時に、河上の方より箸が流れ下つたと云ふのは、一寸見ると何でもない様だが、箸の一字却々閑却することを詐さない。蓋しこれは丹塗の矢などと共に、数々男性の象徴として用ひられてゐるからである。矢の話は下鴨明神の伝に在り、箸は倭迹々姫命の箸墓を連想しよう。尤も此等の事は古伝区々一定はしい様だ。さて又此処に老夫婦が住んでゐたが、男の方の名が足で、女の方の名が手で、共に名椎といふのには注意を要する。久美度邇起而と書いて久美度に起してと訓じてあるが、久美度は隠所だとは既に 前に注して置いた通りである。尤も組み戸かとも想ふのは、バビロニアのビツトシヤガタが英語に直すとザ・プレース・オブ・ユニオンとなるからである。何はともあれ起しては少々変だ、一説にはたゝすと訓じてある。自分は或は今の俗語の寄越すの意味に取れば取れると考ヘた。