三(斯様な事は近代人の目には、実に不都合千)

斯様な事は近代人の目には、実に不都合千万に映ずるに極つて居よう。併し更に深く立ち入つて穿鑿して見ると、堂々文明国と誇称して居る所にも、今尚ほこの遺風が永存して居るからをかしい。例へば仏蘭西・伊太利乃至墺地利などの旧教国では、年々二月の半過ぎにカーナヴアルといふ頗る賑な祭が盛に行はれる。英語でカーニヴアルといふも亦同じものだ。これは快楽祭などと訳されて居る。ニースやヴエニスの最も振つて居ると云はれるものは、不幸にして観なかったが、巴里のは幸に遭遇して、その景況に喫驚したことは今も忘られず。南仏モンペリュ市の様な辺鄙な所でも、亦却々盛に行はれることを実見した、実に当日は満都沸き返へる程の大混雑で、老若男女貴賤の別なく、仮面仮装で、醉狂乱舞、無礼講を現出するのである。 これは四月の初に於ける基督復活祭の前には四十日間に亙る大斉があるので、その大斉に入ゐ に先だち大に遊んで置くので、尚ほ大斉の半にミカレームと称し、瞰肉祭と呼ぶ骨休めがある 様なものだと説明されて居るが、併しこれは素、基督教輸入以前から広く行はれてゐた風俗を適宜採用したものたることは、誰も異議はない様だ。否今日の学説では、夫の基督降誕祭として一般に祝して居るクリスマスさへも、亦その前身は羅馬時代の異教徒中に早く行はれて居たサチュルナリアであらうと云ふことに成つて居る。サチュルナリアは農神サチュルメの祭で毎年十二月の十六・七・八の三日間に亙つた祭で、此の日は一切平等と云ふことで、奴隷さヘも解放されて自由を享楽し歓娯放縦を極めた様である。それは尚ほ希臘に於けるオルジー祭の様なもので、これは酒神バッカスを祭るので、葡葡酒の新醸を祝し、盛宴を張り、男女打ち交って乱舞したもので、今も尚ほ所々にその風はある。然り而して此等の古代の大祭には、皆ざこ寝をしたもので、雑婚は堂々と行はれたものである。今日のクリスマスやミカレー厶には固より既にそんな醜態は演ぜられない様だが、淫風は横溢して皆々徹夜して遊び廻つて居るのを目撃した。

宗教的娼婦制は猶太に於ても亦盛んであつた様だが、其処にはエホバの神殿に男女各々公に定められたる売淫者があつたらしい。それは一個の階級を形成して居た様で、男の方はケデスヒムと曰ひ女の方はケダスホツトと曰つた。又女は娼婦と呼ばれると同時に、男の方は何故が犬と名づけられてゐたさうな。執れも其始は只神殿の奉仕者たるに過ぎながつたらうが、漸くそんな風に成り行つたので、それは随分古い事であり、紀元前七八世紀までも遡ることが出来る。而して女の方は名詮自称娼婦として男子と枕席を共にしたものだが、男の方も亦主として男色を以て立つてゐた様だ。併しそれと同時に又女子に対して行淫を辞せながつたことゝ想はれる。凡そ此等の記事は、旧約全書の「列王妃略」上の第十四章などを看ると分かる。尤も同書にはこれは決してイスラエルの固有の習俗ではなく、カナン族などの持つてゐた悪風の様に書いてある。

併し自分はそれよりも寧ろ「以賽亜書」の第五十七章に多大の興味を感ぜざるを得ない。即ち其処には「なんぢら巫女の子・淫人また妓女の裔よ」と云ふて、巫女を他の娼婦や姦夫類と一緒に看て居ることで、而して彼等は皆エホバを離れて他人に身を委ね床を共にすることを咎めた工合は、如何にも巫女等神殿幸仕者の淫行は、神の喜ばざることである訳も明瞭てあるが、それにしても猶太教のみが、基督教に成つても、羅馬旧教では実に近き頃迄は、上下一般に右の所謂初夜権が僧侶の手にあつて、猶ほ他の旦那権の如く、由つて以て上帝と女子との間に、父と娘との通情関係が髣髴たるものあるのは、注意に値しよう。新教には固よりそんな事は、最初から無い代に、開祖ルツテルは実に尼を寺から偸み出して妻にしたのである。否今日は教会が一般に若い男女の見合の場処の様に成つて居り、米国辺では更に進んで一種の倶楽部の様に見受けるのは、洵に是れ思半に過ぐるものがあると云へよう。