神殿行娼の習俗は、前掲のバビロニアやフエニシアや猶太や希臘や羅馬などばかりでなく、之れを西にしては、墨西其や秘露、之れを東にしては埃及・印度に於ても、亦到処之れを見た様で、就中印度では格別盛に行はれて居るらしい。支那は果してどうか知らぬ。巫覡と云つて女も男も共に神に奉仕して居るが、恐らく其処にも屹度一種の神殿行娼様の事があつたらう。畏友狩野君山博士は、先年来巫覡に関する該博且つ斬新なる研究を「哲学研究」並に「芸文」誌上に発表してゐながら、それには敢て論及して居られないのは大方例の敬慎からであらう。夫の巫山の夢といふ事は昔巫山の神女が自ら薦めて、国王の枕席に侍した高唐地方の伝説で、それは山名であり神名であつて、巫女そのものではないが、それにしても故らに巫山と号して、巫を点出した所に甚深の意義がありはすまいか。漢の郊祀志には、郊畤宗廟を祭るに方つて、女妓を用ひて牲を薦めさすことがある。これは何となく神殿娼婦の面影がある様だが、どうだらう。但し今茲に自分の特に此の一文を草すらことに成つた訳は、必ずしも古今東西諸国の之れに関する習俗を列挙して云々しようといふのではない。それよりも更に一歩を進めて、吾が国に於ける娼婦や遊廓と神社仏閣との関係果して如何といふことを、根本的に遡尋して見たい為である。而してそれには上来縷述した所は、十分に手引たる用を為さうと考へたから喋々したのである。乃も自分は吾が国に於ても神社仏閣は、やがて娼婦や遊廊の起源と最も密なる関係のあることは争はれない様だと断定する。勿論諸外国に於ても娼婦の起源は皆悉く神殿に之れを求むベく、概して宗教的であるとは云へない。尚ほその外にも早くから普通一般に娼婦様のもののあつたことは明瞭である。吾が国亦固よりさうであつて、通例は水路の一津、船舶輻輳、旅客往来の場所に於ける遊女がその初めであつたらしく、又それと共に陸行の宿駅にも亦早くそれに似たものがあつたらう。水路のが遊女で、陸上のが傀儡だなどいふ説も古くからある。
「洞房語園」には当時諸国の遊女町二十五ヶ所の名が挙げてある。その中には神社仏閣と関係あるは太だ少い。強ひて申さば、泉州堺の南津守、播州宝の小野町、芸州宮島の新町、長州下関の稲荷町ぐらゐであらう。併し元来その所謂二十五ヶ所が取材の範囲頗る狭きに失して、他に逸したものが多いことを思はなければならない。第一は伊勢の山田古市さへ落ちて居る。京都でも祇園や北野の新地はどうだ。伏見の撞木町、奈良の木辻も見えない。別して讃州象頭山金毘羅大権現お膝本の新町は、田舎ながらも、同国唯一の遊廓として却々繁昌したものである。自分は江戸の吉原を以て浅草神社や、大鷲神社と囚縁を附けて云々する程馬鹿ではない。吉原は新吉原で、その起源は徳川幕府の後半期に属し、一種の行政上の便宜の為に、新に拵ヘられたものに過ぎぬ。深川のそれも八幡に、根津のそれも権現に、宿縁があるとは謂はない。只前掲大小の諸神社は夙に遠近の賽客が多かつた為に、自ら旅情を慰める必要から茶屋もあり、お山もある様に成つたのだと云つて仕舞へばそれ迄であらう。