六(右の「遊女記」といふのは大江匡房の著であり、)

右の「遊女記」といふのは大江匡房の著であり、「朝野群載」の中に収められてゐて、同じく匡房の著と謂はれて居る「傀儡子記」と共に、吾が国娼婦の起源を知るに第一の資料であるが、それより稍古いものとしては「本朝文粹」の中にある大江以言の見遊女と題する一篇を推さう。それは余談であるが、話頭を旧に復して、神社関係の方を一瞥しよう。それには通例「傀儡手記」を引用する様で、傀儡とは元来人形の事であり、傀儡子は一に傀儡師とも謂ひ、人形を舞はす芸人の称呼である。而してその妻女亦之れに随伴し、歌舞し、客の望に任せて売淫もした。その事は「傀儡子記」に、男は皆弓馬を使ひ、狩猟を以て事とす。或は雙剣を跡し、七丸を弄び、或は木人を舞はして闘挑す、(中略)砂石を変じて金錢とし、草木を化して鳥獣とす。女は愁眉唏粧、折腰歩、齲歯咲を為し、朱を施し粉を伝え、倡歌淫楽すとある。先年「読売新聞」紙上に誰であつたか、這の傀儡子は一種の異民族で、夫のヂプシーに肖た所がある、それか西ノ宮辺に水拠を構へて居て、四方に行遊したのだらうと云ふ説を掲げてあつた様に記憶するが、大に面白い。

併しそれはそれとして、従来の通説では、傀儡師は西ノ宮から出て来ること、丁度三河万歳の様なものであり、その初は昔、同地が暴風で不漁の時に、百太夫といふもの木偶を作り、蛭子の神前に舞はして神慮を慰めたので、幸に風も和ぎ波も静になつて、大漁であつたところか ら、天聴に達して勅許を蒙り、諸国を遍歴して諸神社を巡拝し、終に淡路の国で身まかったが、それが諸国操芝居の起源で、百大夫に四人の弟子あり、上村日向掾が最も名高い。その流を汲んでか、今も源之丞と謂つて、一度却々大規模の様で、自分も幼少の時に観たことがある。色色本末関係などの事は蒼蝿いから言はない。

只自分はこの傀儡師の元祖が百太夫で、又その傀儡師の妻女が所謂くゞつなる娼婦の始だと云ふ所に、多大の興味を感ずるものである。百太夫と云へばいづれ神官の班に列してゐたものに極つて居る。現に西ノ宮の社内にはその小祠がある。これと相似たものに北野神社に白太夫の小祠があつて、祭神は菅公に多年仕へた忠臣の様に伝べられて居る。併し更に自分の注意を引いた事は、熱田神社の末社にも亦同じく白太夫の小祠のあるのを見たことだ。百は恐らく白の間違で、而して昔彼処此処の大社には白太夫と称ふる一種の神宮があり、その妻女と共に巫覡の様にして奉仕して居り、その妻女たる巫は、往々神殿行娼をやり、やがてそれが広く四方 に散じて遊女の始と成つたのではなからうか。西ノ宮も熱田も両所共に今日も尚ほ遊廓が繁昌 して居るのはをかしい。