将又住吉の田植祭には、年々旧に仍つて乳守遊廓の娼妓が奉仕することを例として居る。乳守は津守の転訛たることは贅辯を待つまい。前掲「洞房語園」の堺南津守はそれである。俗伝には昔神功皇后三韓征伐よりの御帰途、長門の国より農婦を伴ひ来つて、此処に置き、農事を広く伝授せしめられたのが、後世愚に成つて、乳守の遊女と身を落したのだと云つて居る。併しそれは少々聴えない。寧ろ神社奉仕の巫女の変化したものと見る方が穏当だらう。尤も夫の馬関の稲荷町の娼婦はそのもと平家没落の際、官女等の落魄して活計の為に淫を鬻いだのが起りでその縁故で今尚ほ赤間宮の安徳天皇の先帝祭には、彼等は盛粧を凝らし、官女の姿で以て行列を揃へて、恭しく参拝すると云ふのとは、一つには看られなからう。此の馬関の方の伝説も、一応は有理の様だが、或は後世の附会で、彼も此も神社に於ける生殖崇拝の一現象に過ぎないかも知らぬ。特に住吉の方は田植を云ふから妙だ。伊勢山田古市と大神宮の巫女との関係の有無は、暫く不明の儘に置くにしても、夫のお杉お玉の路傍に座して、行人の投銭を巧に受けたことなどには、何となくバビロニアのミリツタ神殿の事態を偲ばせる所がある様でゆかしい。但しそれも今は禁止に成つだ。
更に面白く思はれのるは又「遊女記」の方では、南は住吉、西は広田を以て徴嬖を祈る所としたことである。広田は西ノ宮の北方に鎮座する官幣大社で、西ノ宮は素よりその摂社であり末社である。室町の末頃より西ノ宮の方追々繁昌し、特に明治維新後は広田の方は誠に寂寥を極めて仕舞つてゐるが、今茲に「遊女記」にある広田は固より本社の方だらう。特に軽々と看過してはならない事は、同記には上文を承けて、殊に百太夫に事ふる道神の一名なりとある一句を挿んであることでのるが、是れに由つて看ると、百太夫は神官ではなくて一柱の神で、而かもそれは道神の事であるらしい。道神は道祖神の略であることは議論を要さないとすると、それは又賽の神で、やがて陰陽生殖の神であるから面白く成つて来る。他の白太夫も亦之れと同じ様に道祖神であるだらうか。
之れと関連して一言すべき事は、夫の梓神子の身の上である。これは普通には市子と呼ぶ様だが、又縣神子と云ふ所もある。勿論巫女の一種ではあるが、これは神社に奉仕しては居らず、 社家を離れて独立し、専ら神人交通感応の媒介をして居り、死霊生霊を口寄せすることを業と してゐたもので、今は禁制に成つて居る。それは素より賤業者で、而して随分色を売つたらし い。若しさうならばいよいよ巫女が娼婦の起源だといふ事の有力なる旁証と成らう。