最後に昔から鎮守の宵宮と云ふものは、男女の婚媾する一般の機会であつたらしい。夫の盆踊は昔の歌垣に印度風俗など自ら加つて出来たものかと想はれるが、これも亦確に一種雑婚の余風を存した所があるらしい。米人エドマンド・バックレー氏の名著「日本に於ける生殖器崇拝」の中には、比叡山の中腹に元三大師の寺があり、其処の広い林の中で、八月の一夕、若い男女が集つて、奇異なる踊をして、夜を明す事がある。その歌詞には八百屋の地口で、女の方 から男に向つて、「ぬしは長豆の初生(はつなり)は嫌か、お嫌ならば桃を破るのは如何。早くよ」と云ふのがあつて、その次は遉に明さまに書くのを憚ってか、拉丁語でEgo sum cupidus coicndi tecum としてある.これは「人類学雑誌」の大正八年二月号に出口米吉氏の全篇翻訳が掲げられてあるが、拉丁語はその儘にしてあるから、自分も亦遠慮しよう。想ふに此の記事は矢張り盆踊に相違ないと見たは僻目か。
自分の郷里の讃岐高松でも、昔は盆踊は大にはづんだ。而して踊の歌詞は色々あるが、最短くして一般に人口に膾炙した小歌は「一合蒔いた籾種のその枡有り高は、一石一斗一合と一勺」 といふので、これは農家向きとしては格別不思議はない様だが、然かも又その中に大地の繁殖 崇拝があることを掩ひ難からう。「踊り踊るなら、科(しな)好く踊れ、科の好いのは娶に取らう。などは極めて露骨である。
従来僻陬の地方には、往々寝屋といふものがあつて、若い男女は、其処でざこ寝をした所も敢て珍しくない。夫の野崎観音の下を流れて居る川を、寝屋川と呼ぶのも、或は何かそれと因縁があるかも知らない。若し夫れ真に神社の祭祀に於ける雑婚的事例の極端なものはと云はゞ、字洽の縣祭に過ぎるものは多くあるまい。それは五月五日の夜祭で、神輿一基を赤裸の荒くれ 男が犢鼻褌もせず、猛烈に振り廻し担ぎ廻つて徹宵するのであるが、此の夜は全町内いづれの 家も悉く解放して、他人の入って宿泊するに任し、而かも家屋内外一切消燈して真の闇黒界に して仕舞ふから、濫交雑婚頗る放縦なものがあり、誰でも求められたならば拒むことは出来ないと云ふ習俗であつたと聞いた。勿論現今は警察の取諦が行届いて、そんな昔の様な乱暴狼藉は無くなつたことは喋々を待たないが、併し矢張り大いに賑はうらしい。
所謂縣祭は縣の社の祭である。縣の社は宇治の平等院の西門の飾の傍にある小社で、今日は祭神は木花咲耶姫と定められて居るが、自分は又曾て莵道会の懇囑で、稚郎子の遺跡顕彰の事に関し、式内宇治神社の比較的詳細なる考証を試み、その講演速記録は「京都府教育会雑誌」(明治四十年十一月)に載つてゐるが、当時この縣の社の方が或は昔の式内社ではなからうか。「延喜式」には宇冶神社二座、宇治彼方神社一座とある。而して二座共に鍬靱を以て祈年祭を行ふたとあるのを見ると、無論昔は稚郎子やさては応神天皇、仁徳天皇などを斉き祀つたものではあるまい。矢張り五穀豊穣を掌る天神地祗であらうと云つた。それはそれとして俗説では縣の社は弓削道鏡を祭ると信じて、「雍州府志」などにも、道鏡明神の祠といふ風に書いてある。尤も一説には宇治左大臣頼長を祭つたものだと云ひ、「山城名勝志」はそれを取つて居る。「都乱所図絵」は両説並べ載せた中で、前説を主としてある。道鏡説の由来は推測するに難くないが、頼長は世に悪友府と曰はれた人で、而かも宇治の土地と関係があるから言ふのらしいが、一向理由が明でない。然かも自分は固より道鏡説も取らない。さりとて木花咲耶姫もどうだか分らない。只此の縣の社といひ、又彼の橘姫の社といひ、宗教の人類学的社会学的研究に色々面白い材料が、京都近く残つて居ることを有難く思つた。バックレー氏などは外国人だけに、万事周到な様でも手落があることは已むを得ない訳だらう。