一(今茲には再び元に立戻つて、今も昔も別して<%= link_to "禅宗", "11-zenshu" %>で)

今茲には再び元に立戻つて、今も昔も別して禅宗で盛に行ふ所の授戒会なるものに就いて、その本質は果して如何なるものであるかと云ふ事を究明して見たいと思ふのである。勿論授戒会は固より禅家独特のものではない。爾余の仏教諸宗派、只独り真宗を除いての外には、大概これを行ふ様で、寧ろ禅宗の方では実は却て遙に後れて他の真似をしたらしく見受けられる様でもある。更に言葉を改めて申さうならば、元来禅宗なるものは直指人心見性成仏と云ふ事が眼目である。それが仏心宗の仏心宗たる所で、所謂大事悟了の外は何も無い筈である。尤も仏教には夙に戒定慧を三学と立てる様で、禅宗も亦仏教であれば、戒も決して無用とは謂はぬだらう。併しそれは畢竟一個の予備で、定さへも亦寧ろ階梯であるらしく、只期する所は慧に在ると見られんでもない。此の事に就いては大正七年夏出版の朝鮮人季能和の「朝鮮仏教通史」の 中に支那の楊仁山居士の「禅宗略説」といふ一篇が掲げられてあり、その文の冒頭に「達磨西来、不レ立二文字一、直指二人心一、性成仏、歴代相伝、人皆称為二禅宗一、其実非二五度之禅一、乃第六般若波羅密也、観三於六祖、盛談二般若一、則可レ見矣」とあるのは、何となく吾が意を得て居る様に思はれたので、当時大阪「関西日報」主催の禅道場に於ても、特に披露した訳である。言ふこゝろは夫の六波羅密中の第五番目の禅波羅密よりも、寧ろ第六番目の般若波羅密の方が禅宗禅宗たる所であると云ふので、只静に坐つてさへ居れば、それで事足りると云ふ筈はないと、居眠り同様徒に定三昧のみを高調する輩の頭上に一棒を加へたのは面白いと思ふたのである。それにつけても苟くも学仏の徒は誰も承知の通り。天台大師の「止観」の四、即ち小止観の中には乗と戒との緩急に就いて、乗急戒緩、戒急乗緩、乗戒倶急、乗戒倶緩の四句分別が設けられてある。即ち専ら成仏の道に急にして智慧を研くを乗急の人とし、殊に戒法を厳にして智慧を後にするを戒急の人とするとある。禅宗が果して乗急と謂つて可なるかどうかは暫く詳説を措くが、何にしてもそれが戒急でない事丈けは明瞭であらう。現に此の文を草するに方りても、一応臨済宗に於ける戒の看方を承知して置きたく、或る人を介して、臨済宗大学々長池上恵澄師(天授庵柏蔭老師)の教を乞ふたところ、その回答には、戒の事は当妙心寺派では左程精しく穿鑿はしない、アレは寧ろ建仁寺派などの方には昔から戒学として却つて喧ましいものがあると云はれたさうな。

如何にもさうであらう。建仁寺の開山千光国師は勿論、東福寺の開山聖一国師も亦同じく戒学に於て、一頭地を抜いて居られた様に承知してゐる。即ち「天台学則」の下巻に「千光聖一道元等の諸名徳も、亦此の大乗律宗円頓の具戒の人にてありし事は、其の撰述を読んで自ら識るベきなり」とある一節に拠つて爾云ふのである。尚ほ沙門了恵の弘安年間の筆録に係る「天 台菩薩戒義疏見聞」の第一巻第一章にも、相伝縁起の題下に、「爰或人伝云、建仁寺第八代長老、一乗坊法眼円琳者、是一乗戒碩学、天台宗龍象也、十五歳時、登壇受戒、而即往二東塔東谷仏頂尾一、在二宝地房証真座下一、学二天台宗一之中、十七歳建久元年八月、承二此戒疏一、而賜二私記及戒儀等一。又二十五歳、建保二年三月、奉レ謁二泉涌寺開山、我禅律徳一(諱俊●(草冠に乃))学二天台宗、四明大綱 及大小乗戒律一之中、殊学二此義疏一、或時於二夢中一、感二得戒儀一、文言符二合経疏一、是以取二両師(証真俊●(草冠に乃))義勢一、総二前後一、補接而抄二記之一、而有二四巻一、後治定成二六巻一、(嘉禎三年丁酉正月添削再治)、其抄雖レ未二流布一、有志者、自為二懐中秘書一云々。予聞レ之、即奉レ謁二彼琳師一、学二此義疏一、宛叶二正信上人相伝一言一、喜悦無レ極」とあり。愈々明瞭である。此の「義疏見聞」は収めて「大日本仏教全書」の中にあるから、就いて看玉へ。

要するに授戒会禅宗に於ては実は固有のものではないのである。否却て浄土宗の方などで最も盛に行はるゝ様で、それは全く同宗祖法然上人(明照大師)が夙に叡山に於て受戒せられた るに由るらしい。その事の来歴は一寸上人の自著と云はれた「初学鈔」でも窺はれるが、具さ には「顕浄土伝戒論」といふ書物に載つて居る。件の書物は本、漢文であるが、読み易い為に転訳して仮名交りとしやう、その略に曰く、「問ふ、円頓戒は是れ天台宗の所伝なり、浄土宗の法則にあらず、何ぞこれを伝受するや。答へらく、凡そ出家の人は如来の大悲に代り、一代の教法を伝持し、一切の衆生を利益す、是れ如来方便なり、是れ衆止福出なり、何ぞ自他宗の偏執を以て、苟も無辺済度の弘誓に背かんや。況んや円頓菩薩戒は殊に浄土の嫡々相承の派脈なるをや。故に最も代々相伝へ、世々受持す、何ぞこれを怪むるに足らんや。天下は是れ一人の天下にあらず、天下の同じく天下なり、況んや法沢には私なし。たとへ本、天台宗の戒相たりと雖も、台宗人失ひて後、浄教の人これを得たらば、何ぞ浄教の人を以て伝戒の本と謂はれざらんや。所以いかになれば、此の戒は南岳の心伝にして天台頂受相伝より己来(中略)、第十七代伝戒叡空上人に至る。伝教大師定むる所の如く、我が門人に於て智道兼備の仁を以て、伝戒の嫡弟とし、九条の紫衣、十二門の戒儀を授けんとす。然るに叡空の門人その数多しと雖も、智道兼備の仁は方さに源空に当る。叡空念じて言へらく、我が戒法嫡々源空其の仁に当ると雖も、彼既に他宗の志あり、離山の望あり、彼を除いて已外また其の忝なし。憾くらくば南岳第十七代の伝戒、露地七代の嫡法、我に至つて将さに絶えんとす云々。廼ち端夢を源空に感得し、伝衣伝戒し畢りぬ。仍つて南岳第十七代の袈裟妙楽、十二門戒儀等悉く叡空上人より護りを得、「金剛宝戒章」を作り、即ち天下の戒師と成り、終に後白河院、高倉院の和尚と為つて御受戒し畢りぬ。上人鷂林の後、本寺本山の僧伝戒の望あるに依つて、我が浄土宗よりして之れを相承す。即ち山門神蔵寺和尚伝信・三井寺常寂院法印隆禅此の戒を再興するも、只其の略戒儀のみなり。此は慧亮の「説戒旧儀」を尋ぬベし。この外禅律受くる所の円頓戒も亦是れ黒谷相承の血脈なり。故に知る、本是れ台家嫡々相承の戒体なりと雖も、上人嫡法を受けてより後は、此の戒の嫡流偏に浄土宗に在るなり。凡そ浄土一宗に於ては二の血脈あり、所謂宗脉と戒脉と是なり。若し宗を伝ふるの時は必ず以て戒をも伝ふ」と。右は「古恥類苑」に載する所を孫引したのである。然かもその事は前掲の「義疏見聞」にも亦劈頭第一に書いてある。乃ら禅宗授戒会が果して浄土宗のそれに真似して起つたかどうかは、今暫く明言しないとするも、左に右禅宗授戒会のあるは比較的に遅い様で、徳川幕府の世になつてからであるらしい。只その初開の年月を未だ詳にするに暇なきを憾とする。「金剛宝戒章」の真偽は暫く指く。

何はともあれ斯様に申したからとて、それで以て自分は臨済宗の戒脈は素、浄土宗より出でて居ると言ふのではない。否臨済宗の方では概して千光国師を本朝での戒祖と推立てる様であるが、国師の戒脈は全く別伝で、即ち入宋して台州高年山に於て盧菴より菩薩戒を受けたのだと云はれで居る。更に委しく言ふと、左の通り仏祖嫡々相伝であるさうな。蓮華台上廬舍那仏、千光王座釈迦牟尼仏、迦葉尊者、阿難、商那和修、優婆●(毛へんに菊のつくり)多、提多迦、弥遽迦、婆須密、仏陀難提、伏陀蜜多、脇、富那夜奢、馬鳴、迦毘摩羅、龍樹、迦那提婆、羅喉羅多、僧伽難提、伽耶会多、鳩摩羅多、闍耶多、婆修盤頭、摩奴羅、鷂勒那、師子、婆舍斯多、不如密多、般若多羅、〇菩提達磨、慧可、僧燦(王へん)、道信、弘忍、基能、南岳、馬祖、百丈、黄檗、○臨済、興化、南院、風穴、首山、汾陽、慈明、黄龍、晦堂、震源、長霊、無示、心聞、雪菴、盧庵、明庵と次第するので、明庵は即ち千光国師栄丙の事である。是れは前掲の柏蔭老師の示教に拠つたのである。因に朝鮮の臨済宗では臨済下第六世慈明迄は右と同じであるが、それから別系になりて方会、守端、法演、仏果、紹隆、曇華、咸傑、祖先、師範、祖欽、宗信、清洪、普愚と相伝するらしい。普愚は所謂高麗国師で、朝鮮禅宗の開祖であるさうな。これは「朝鮮仏教通史」に拠つたのである。尤も南山一流の小乗戒律は朝鮮にも早く新羅時代に慈蔵律師なるものに由つて伝へられて居る様だ。

禅宗授戒会の由来若し果して右述ぶる所の如しとするならば、其処に起つて来る疑問は、禅宗又何故に斯かる授戒会などをするのかと云ふ一事である。禅宗として江湖の参禅者の為に大接心会を開くなどは最も当つて居やう。然かも一般俗衆の為に授戒会を催すに至つては、或は一見不相応と思はれはせずや、これが自分の会て懐いた疑問である。此に於て授戒会の性質を一言する必要がある。蓋し授戒会は実に一般俗衆の為に行はるゝもので、昔よりの所謂戒会、伝戒会ではない。試にそれを他宗の行事に比較して申さうならば、戒会は伝法灌頂の如く授戒会は結縁灌頂の如しである。知らず所謂結縁灌頂なるもの亦初よりあるか否か、授戒会なるもの初よりあるか否か…………