三(色々話が錯雑して来たが、自分は今茲に一つ)

色々話が錯雑して来たが、自分は今茲に一つ今日実際禅宗特に臨済宗妙心寺派の寺院に於て 行はるゝ授戒会の状況一斑を写して置きたいと思ふ。是れは臨済宗大学職員某師のお世話で手 に入れられたので、頃は大正四年三月美濃国の富士山東光禅寺に於て挙行せられたものである。それは実に堂塔庫裡の再建修繕が成就したので入仏の式典を行ふと同時に、賤桑暘門大拙三大和尚の年忌を修める為で、毒語心経会と呼んで居る。而して其の斉会の序に、先帝皇大后両陛下を始め奉り、戦亡者の追薦もあり、大小幾十返の施食会もあり、又提唱や説教や法話もあつた様だが、然もその中心となつて居るものは授戒である。授戒には加行あり説戒あり、終に授戒し訖つて、満戒散会となる順彫である。その日取は三月十六日に斉会が行はれ、翌十七日より二十三日まで一週日間に授戒の手続が着々進行する。それには戒師証明師羯磨師の三師がある。戒師は斉会の上香で高源老大師之れに当り、証明師は南針大和尚で、羯磨師は高成大和尚である。三師は三師だが、他の戒師羯磨師教授師と云ふのとは少々違ふ。而して別に七証はなく教授師もない。想ふに証明師が之れに当る訳で、謂はゞ戒師証明師羯磨師の三人で以て一切を済ます都合かと伺はれる。

因つて試に授戒関係の記事を日誌中より抜抄して見やう。

十七日晴 午前六時大鐘、四衆参集を促す。同八時半鐘支度、両班整列、同連声戒師参殿。三千仏回向。十句経登座。五師拝ありて、称名師(証明師?)登唱あり。次に施食会、説教あり。午後一時講座如例。次に南禅管長(証明師)登座加行。次に施食会。次に説教。

十八日晴 午前八時説教、施食会、次に加行、説教あり。午後講前三巻大悲咒々中に於て、先帝皇大后両陛下及び戦亡者追薦回向、官公吏の拝礼あり、講座如例。次に加行、次に施食会了つて説教あり。本村小学校生徒数百員本堂前に整列、両陛下前に唱歌を宜し、敬拝式を行ふ。

十九日晴 午前七時撮影、在衆尽く出頭。前田師一場の法話を戒徒に加ふ、已後毎朝之を例とす。加行の後施食会了つて説教あり。午後一時講前大鐘法鼓出頭、転読般若一座。引続き三巻大悲咒の中二巻は施主家の献鉢諷経提唱。五師の拝例の如し。加行及び説教の後施食会。

二十日晴 午前七時演説、加行説戒の後、施食会了つて演説。戒徒の点呼席調を行ふ。午後大鐘法鼓出頭、転読般若一座。次に講座五師の拝如例。次に加行及説教了つて施食会。

二十一日晴 午前四時施食会。同七時施食会後加行、次に説戒あり。午後講席三巻大悲咒の中にて、瑞光曇裔和尚献鉢諷経を為す、余は例の如し。請後加行、次に施食会。

二十二日晴 午前四時施食会。同八時施食会。次に加行三千拝全く了る……去る十七日 礼拝数の日割大率左の如く定めたり爰に記す○十七日三百礼○十八日前四百礼、後三百礼○十九日前四百礼、後三百礼○二十日前四百礼、後二百礼○二十一日前三百礼、後二百礼○二十二日前二百礼。但し時に応じて増減あり……次に説戒あり、直壇より戒徒に対し登壇証を付与す。此日証明羯磨両師を拝請せり、午後大鐘講例の如し。五師及び五十三仏の拝の後、若干補欠の拝あり。講了下座。触礼及び祝礼。次に説教。次に施食会あり。諸寮各々満戒凖備に従事す。昏後雨、諸寮剃髪沐浴の事。

二十三日雨 諸寮粥座講了斉を供す。朝課懈怠。午前七時大鐘、四衆参集、法鼓戒師証明 師羯磨師各昇殿。心経消災呪、三千仏回向、十句経中登座、授戒の作法了りて血脈授与。四弘誓願三返。四衆散場就斉。雨晴る。午後半鐘総供養。施食会及び放生会了つて、主席已下祝礼前日の如し。晩開板後総荼礼。

二十四日 戒師奉送云々。

是れで以て今日禅宗が固有の参禅接心以外、他の仏教諸宗派と一般に行つて居る所の色々の宗教的勤行などの工合が大略分かるから、太だ有益である。蓋し苟も宗教としては矢張り斯うなくてはならないものかも知れぬ。否実は一般的宗旨としては肝腎の座禅などよりも此の方が俗人向に広く通用するらしい。従つて早く此処には授戒の性質も全然一変して、只俗人の結縁と云ふ程の事になつて仕舞つて居るらしい。即ちいよいよ俗向きで、真言宗の結縁灌頂などと全く同じ性質である。浄土宗の五重相伝亦似たものであらう。然し而して真宗にさへ所謂帰敬式あり、又永代経なるものが施食会(施餓鬼)と殆んど同趣意で行はれて居るからをかしい。 (密教戒法の事は今は一切略する)。

それにしても此の授戒会にも最初の戒会の本来の耐影が髣髴たるのは有難いではないか。加行は人正位の準備として修行する事で、是れは元来真言密教に於て特に喧しく云ふ所ぢやさうなが、此処には三千仏回向がそれである。三千仏は具には三世三千仏と云ひ、過去世荘厳劫の一千仏、現在世賢劫の一千仏、未来星宿劫の一千仏、都ペて三千仏で、「三千仏名経」には其の 名を挙げてある。或は曰く、吾が国宮中に於て仏名を修する事は、仁明天皇の承和十二年に始 まる。以来広く都鄙に行はる。而してその拠る所は本、十六巻の仏名経にあり、実に仏菩薩賢 聖等一万三千余を列してある。後、延喜十八年に三千仏名経に改修せられてより以来は、これ を常式とする。然も導師は仍ほ作法を改めず、初後に於て必ず一万三千仏と唱へるのが故実だ と、例の「塵添●(土偏に蓋)嚢抄」に見えて居る。知らず禅宗の授戒会も亦然るか否か。「十句経」は申す迄もなく「十句観音経」である。又普通所謂五師拝の五師には附法五師と伝戒五師とあり。又附法五師にも異世同世各々五師あり。附法異世の五師は摩迦訶葉、阿難、摩田提、商那和斯並に優婆毯多と次第し、而して優婆毯多の下に五人の弟子あり、曇無徳、摩訶僧祇、弥沙塞、迦葉維、犢子部とする。将又所謂伝戒五師は「普見律」に優波離、駄写拘、須那拘、悉伽婆并に目●(うしへんに建)連子帝須とし律蔵を相付して断絶せしめず第三結集に至りたと云はれて居る。但し今此には禅宗でも矢張り主として附法異世の五師の如きものを推すのであらう。と斯く考へたが尚ほ不審なので、再び柏蔭老師に教を乞ふた所が、意外にもそれは釈迦牟尼仏(為受菩薩戒和尚)文殊師利菩薩(為受菩薩戒羯磨阿闍梨)弥勒菩薩(為受菩薩戒教授師)十方諸仏、(為受菩薩戒証戒師)十方諸菩薩(為受菩薩戒同法侶)の事だと応答せられた。是れは成程と思はれるが、失礼ながら些か腑に落ちぬ所が無いでもない。別して最後の十方諸菩薩は受戒同法侶と註記せられたる通りならば、師とは申し難くはなからうか?終に五十三仏は「観楽王観楽上二菩薩経」に見る所の如くならん。同経に云く、「若復有レ人能称二是五十三仏名一者、生々之処、常得三値二遇十方諸仏」と、凡そ此の一段は門外初学者の為に足を添へたのに過ぎぬ。然かも実は更に別に多少の重要なる意義あり、後に弁ずる所を待って知るペし。