五(以上一通り戒並に受戒授戒等の事を、歴史上)

以上一通り戒並に受戒授戒等の事を、歴史上並に今日の実際上より暼見し了った、而して後自分は始めて本文起草の主眼たる受戒並に授戒会の本来の性質如何と云ふ事の研究に着手せん とする。蓋し斯くして自分が色々研究し得たる結果は、他ならず受戒は畢竟新僧の進んで僧衆 の仲間入する儀式だと断言せんとする。勿論それは必ずしも始めて僧となる時の事ではない。童形の者落髪して沙弥となるものは所謂得度で、精しく云はゞ試験得度である。而して更に修行を重ねて満二十歳に至り、三衣鉢具備して一切の資格欠くる所なく、発心乞戒して受戒したらば、則ちそこで始めて衆僧の仲間入して、やがて長老とも成れる訳である。暫くこれを俗世間の学問修業の順序に対較すると、童形は小学児童なり、得度は中学生徒なり、受戒は大学生となる事で、其上卒業して允可を受くるのは、則ち学位を受領するが如きものであらう。由って始めて師家とも成れる訳で、師家はマギステルにして又ドクトレースであると看られる。所で此等俗世間の学問順序にも、一新階級に上る毎に多少の儀式あり、吾か国では今日は万事太だ簡略だけれども、欧米諸国では今尚は昔の侭に却って複雑なることを見た。否此等世間学校の階級に比較する代りに、又寧ろこれを一般風俗の而も宗教的意義を以て行はれるものに当てゝ考へたならば、更に思半に過ぐる所があるのは疑ない。乃ち自分は受戒の如きは古仏教国の社会に於て宗教的儀式を以てせる成年式で、やがて又成年者の仲間入りする為に行はるゝものだと解せんとする。此事は文学し宇野円空氏が、先般来仏教大学内壬寅会発行の「六条学報」に附録として、翻訳連載して居るトーイ氏の「宗教史概論」中、古代の宗教儀礼なるものを読過の際に、ふと気付いた所である。トーイ氏はその名をクラツフオルド、ハヱルと云へ、現に米国ハーバート大学の名誉教授である。而して件の著述は「宗教史教科叢書」(ハンド、ブツクス、オブ、ザ、ヒストリー、オブ、レリジヨン)の中に収められ、題して「イントロダクシヨン、ツ、ザ、ヒストリー、オブ、レリジョン」と云って居る。宗教史序論の義で、それを宇野氏は達意的に概諭と呼び倣されたのだらう。千九百十三年(大正二年)の新刊に係り、全巻六百頁に垂たるもので、材料極めて豊富なりと見受けた。右トーイ氏に拠れば早初嗣の宗教的儀式にも二大別あり、俗世間的と神聖的即ち出世間的とである。更に細別すれば、第一は感情的戯曲的儀礼で、音楽舞踏より行列周行に至り、尚ほ魔術的功力をも含む。第二は装飾的医療的儀礼で、身体家屋の装飾より、種々の官報法服に及び、其の象徴的意義より魔除の功能をも含む。第三は経済的儀礼で、狩取ったる動物の慰和より、タブーに入り、飲食の儀式作法、血を啜る事、土地を肥す事、初生動物乃至初生児を犠牲に供する事、五穀豊穰の事、請雨止雨の事なども網羅す。第四は発情期并に新入の儀礼である。是は若い者を訓練して艱苦に堪へさす事より始まり、身体の切断、男子並に女子の割礼に及び、更に氏族に加入すること、その上に又秘密団体に加入することの儀礼をも含んで居る。第五は結婚。第六は出産。第七は埋葬の儀礼で、最後に浄化聖化の儀礼を挙げてある。

斯くて自分は吾が仏教徒の得度並に受戒を以て、実に右の中第四番の所謂発情期並に新入の儀礼の一つと看んとするのである。割礼は独りヘブライ人のみならず、カナヽイ卜人並に埃及人などの中にも広く行はれたる跡があるさうなが、印度には未だ曾てない様である。然し自分 の卑見では、落髪は又是れ確に一種の身体切断で、即も得度は又やがて発情期に於ける宗教的古儀式に、兼ねて教団の新入式だと看たらば好からうと考へる。若し更にそれが一歩を進めて 受戒となると、それは或は比丘比丘尼と称する仲間の入団式とも看られやうし、従って夫の白四羯磨で以て再三反復して衆僧の承認を求むる訳も分かる。尤も俗家白衣の身で受戒する場合 は、必ずしも比丘比丘尼と称する特別の一団に加入する訳ではないが、それとても矢張り広義 の仏教社会に仲間入する儀式と見做したならば、意義は頗は明瞭と成らうし、現にそれで以て始めて優婆夷優婆塞と成るのである。

今試にトーイ氏所説の要点を摘記すれば、凡て新入式の一特徴は、新入者と該氏族或は秘密団との間に結合の関係(私註結縁の義が)保証せんとするものであって、例へば新入者が其の仲 間の者の血を啜るとか、或は身体の他の部分を結合するとかするのはそれである。是れは畢竟 血族関係を取らんとするものであるが、尚は之れと異って新入者が先づ一度超自然者に由って 殺され、更に新に復活すると云ふ風にするのである。それはフレザー氏なども色々云って居る が、濠洲辺の土人の中には、今尚ほ行はれて居る。而して又進歩したる高等宗教の中にも洗礼 や堅信礼に於て存して居ることは争はれない。又フレツチャー氏等の言ふ所に拠ると、亜米利 加印度の未開種族中では、青年を独り寂寞なる場所に於て徹夜せしめ、以て超自然的守護者の影向を待たねばならぬさうな。いづれにしても此等新入式の一要部としては、新入者は此の際 一種秘密の教訓を与へられ、由って以て新に別な高尚の生活に入る事である。蓋し之れを高尚 と謂ふ所以は這裏業に已に多少の道徳的教訓が含まれたるのを指すので、然かも秘密団が一層 進んで、教会之に代るに至っては、儀式は益々精練せられ、超自然的要素は愈々顕著となって 来る。此等の事はウェブスター氏の「原始的秘密結社」などを参考すると分かる云云。由是観此吾が仏教の受戒は小乗のそれにしても固より早く已に野蛮未開の原始的程度を超脱し、その結団は教訓が高尚であると共に、超自然的要素に於て大いに豊富であると謂って妨なからうで はないか。(「六条学報」一九七―九六号参照)

話が稍々脱線し掛けたが、再び本に立戻って、僧俗の関係を更に論究するとなると、自分の 考へでは元来当初は僧団と僧団外の一般俗衆とはさして区別せず、苟も立派に一人前の人間た らんには、それは僧であるべき筈なりとし、受戒は直に是れ立派に一人前の人間の仲間入する ので、謂はゞ一種の元服か冠式なりと看られざるにあらずとも思はれる。蓋し吾が元服加冠の 式にも亦十分宗教的意義のある事は、敢て喋々賛弁を弄することを待たぬ所であらう。斯くて 当初は一人前の立派なる人間としては、皆僧たるべき筈であったらうと言ふのは、又必ずしも 自分一個の臆断ではない。現に夫の暹羅国などでは王公貴人皆一度は必ず出家得度して入寺す るの習慣あるので明瞭であらう。

然も年所を閲し文明進歩し社会愈々複雑と成るに随っては、又単に或る一定の少数族のみ独り立派な人間と戚張ることは許されず、此に於てか次第々々に其の範囲を拡張すると共に、約束も頗る寛大と成り、僧尼以外の篤志特行の者をも准員として仲間入せしむるに至ると、其処に自ら俗家白衣の者にも受戒あり、瓦戒八戒は在家俗人の戒なり、十戒具足戒は出家緇流の戒なりと云ふ風の事に成って来る。但しそれ丈では実際は未だ広く一般庶民には及ばないで、恐らく上流の子女のみに限られたる有様であらう。従って受戒の儀式も亦依然相応に鄭重で繁雑を極めたらう。即ち小乗律は其処に止まれりと見受ける。所が大乗はさうではない。元来広く利民済世を旨とする所から、梵網為本の円頓戒では復必ずしも最初より僧俗緇素の間に於て、厳 乎たる区別を設けず、況んやそれが吾が国に於て、山家天台より一転して浄土宗門に移ってか らは尚更の事である。乃ち受戒伝受は数々法令に由って俗人に施すことを禁制せられたことは 上述の如くであっても、自然の社会的趨勢は如何とも致し難く、層一層広く世間に普及し、上 流中流よりして終には下流一般にも行渡る様に成って、終に元来は叢林静座の禅宗にさへも右 様の体裁を以て、又庶民一般に施さるゝ様に成ったものと思はれる。それは徳川幕府時代特に元禄享保以後、平民的文化の勢力漸く増長すると相伴ったことは、蓋し当然の事であらう。而してそれを一層平民的にした真宗の方では、復授戒会を行はす、只簡単なる帰敬式で済ませる迄に至ったことゝ考へる。

それ然り、今日の授戒会は一教団の仲間入よりは寧ろ只単に漠然と結縁と云ふ風に過ぎざる様だけれども、然かも前に詳述せし通り、其加行に於て頻に仏名を称し、五師を拝する如きは、それは単に帰依僧のみにはあらず、矢張りトーイ氏の所説の様に、暗にその血脉を受けて血統 的関係を作り、仲間入りするの面影はある。之を要するに最初は小乗律で専ら比丘比丘尼に限られたのが、一進して優婆夷優婆塞に及び、再転して大乗円頓となり、更に拡張して終に極めて寛濶なる授戒会と成り了りしものであらう。従って授戒会は其の本性はデモクラチカルなる事に於て、著しく近代的色彩を帯びて居る。想ふに自今以後も若し仏教を以て広く社会一般の人民を糾合せんとせば、一種の授戒会なり、結縁灌頂なり、乃至帰敬式なりが愈々盛に行はるるは自然の要求であらう。但しそれが実際只一個の儀式たるに止り、空文徒辞たるならば、告朔の●(食へんに気)羊と何ぞ択ばんやで、形式の授戒会よりは寧ろ実質ある受戒ならでは効薄かるべしと信ずる。

尚ほ因に西洋基督教の風俗を一瞥しやう。勿諭同じく基督教と謂ふが中にも、旧教と新教とは万事大相違があり、一口には言ひ難ねるが、但し新旧孰にしても洗礼はあり、又旧教にはコンミユニオン即も聖礼拝領あると共に、新教の方にはロード、サツバー即ち聖餐礼あり、其の名は異るけれども、実は略ぼ相似たる様である。而して洗礼は何となく灌頂に近きものあるは疑なく、委しい事は往年文学博士松本文三郎氏が京都帝国大学文科大学内文学会発行の雑誌「芸文」第一巻に説明せられたる通りである。ところが、又今茲に謂ふ所の授戒会は自分の考では、何となく旧教のミサの供養に於ける聖体拝領に比すべきものである様に思はれる、試に其の儀式の一斑を記載して見ると、当日主僧先づ自ら聖壇に跪いて、ミサを行ふ旨を白し、耶蘇基督の肉と血とを拝領して、而して更に広く信徒に頒っことゝする。然も信徒は聖盃に与かることは許されず、只一片の聖餅を頒たるゝのみで、這の聖餅は仏蘭西語ではオスチー、英語ではホストと謂ふが、それは酵母を加へずして製した麺包であって、主僧のそれを特に浄化したものである。斯くて此儀式に列し聖体を拝領せんとするものは、前日の夜半よりして一片の食一椀の水をも取ることを禁じ断食しなくてはならない。然り而して此の聖餅を頒たるゝに先だちて、既往の罪障を告白懴悔し、恕罪を仰がねばならぬとすると、是は全く、一種の恩賜の貎 となる道理である。現に仏蘭西では初回の聖体拝領は大抵男女十歳より十二歳の間に挙行する 様で、当日は本人は各々堂々と礼装を着し、宛ら年長者の婚姻の如くである。而して式後は自 家に於て盛饌を設けて、親戚知人を招いて饗宴し、又親戚知人よりはそれぞれ祝品を贈り、時には特に招いて馳走することもある様である。此聖体拝領が十歳乃至十二歳の頃とすると、そ れは寧ろトーイ氏の所謂発情期の儀礼に属するとも看られるけれども、又次に確に一種の新入 の儀礼たるは掩ひ難い様で、而しそのミサの供養中に於て多人数に一時に施す所は、何となく 吾が授戒会に髣髴たる所ありと認むるのである。尚は比の聖体拝領は右の通り寺院に於て挙行するが通例なれども、時と場合とに由り、例へば重患の折などは、特に其家に就き病床に臨んで施すこともあると云ふことである。凡そ此等は前掲トーイ氏の所説に照すと、実際仏教の昔の戒会や今の授戒会などよりは、寧ろ程度は遙に低いらしい。只彼我執にしても単に象徴化して仕舞っては、真実の意義を閑却する処があらうと云ふ事を、一言注意して擱筆する。