一(本書の外題は「現代宗教と性慾」と命じてある)

本書の外題は「現代宗教と性慾」と命じてある。然かも上来の内容は多く吾が国に行はれたる古来伝統のものに就いて陳ベた様で、其処に或は羊頭狗肉の譏あるかも知れない。併し自分としては現に吾が国に行はれて居る宗教は、神道にまれ仏教にまれ、それは皆共に汎称して現代宗教と謂つて妨なしと解し、やがてその崇拝信仰の由つて来りしところを遡尋して、終に性慾に帰すベきこと最も多き所以を明さんとしたものである。斯くて禅宗に於ける目下の一大行事たる授戎会の上にも、亦格別の調査研究を遂げた訳だが、それにしても何となく古色蒼然として、現代離れがして居る様だとの非難がありはしまいかとの、憂慮の余り、今茲に巻末に迫つて、実に現今吾が国宗教界の大立者である、真宗開祖親鸞聖人の、何故に爾く流行するかと云ふ事に就いて、些か性慾学の上より観察して見たいと考へたが、どんなものだらう。

然り、現今親鸞聖人の斯く流行する所以は、それが恰も西洋諸国に於ても、大戦中より延いて戦後に及んで、宗教が再び興隆しつゝあるの状勢に伴応するのだと看るのも、固より必ずしも間違つたものとは謂はれまい。然かも人若し更に一歩を進めて、然らば何放に今日彼の国では、左様に宗教が復活しつゝあるか、その理由を一応究明し、而して更にそれを吾が親鸞流行と対照して、異同如何と論じ詰めて行つたならば、それは案外両者相似ないところが多いのに喫驚するかも知れない。

試に思へ!彼の国で宗教信仰の復活しつゝあるのは、先づは主として今度の大戦に際し、哀別離苦、いとし可愛い夫や子を、知らぬ他境に送り遺つて、征人終に帰らず、東西南北も不明にして、梨の礫の消息も打ち絶えたる折柄、偶々夢か幻か、恋しき人の最期の様子なり、さては死後の状態なりを感知して、頓に人生の無常を悲観すると共に、超自然たり超人間たる神の大慈大悲に縋がり奉つて、偏に後生安楽に遇ごさせ玉へと祈願する様に成つたからだと云ふところに淵源してゐるらしい。若しさうならばそれは恰度仏教の浄土門の信仰に相似てゐる様に看られやう。併し自分に言はせると、それは昔、鎌倉時代の浄土教流行の理由であつたらうが、決して今、大正昨代の親鸞流行の理由ではないと見た。

将又仏蘭西などでは、予ねて国民一同が不倶戴天の仇敵と視て、臥薪嘗炭、束の間も忘れなかつた独逸人、特に普魯西人の新教信仰に対して、これ又宗教としては氷炭相容れ難い、羅馬旧教の熱烈なる信仰を翻つて、以て愛国心の提撕に便じたと聞いたが、それも吾が国今日の親鸞流行には、固よい毫も痕跡を認めない。それと共に英米諸国では、一面には戦乱の禍秧に懲りて、何とぞ早く永遠的万国平和を実現しようと、基督教の博愛主義に頼る者もあり、又一面には社会経済状態の日に非なると同時に、社会改善の政策寸時も怠るべからずとして、その確固たる基礎を宗教に求めようとするのもあるらしい。然かも此等の事は固より吾が国今日の親鸞流行とは没交渉だと断言して憚らない。

只それよりも彼の国今日の宗教流行は、前世紀に於ける科学万能時代の一大反動で、それは早く已にヤイヤース一派の心霊的研究などが主となり、一般に神秘的色彩が、思想界に漂ひ出したのと、尚且つ哲学の復興に由り、従来の主知主義に対して、新理想主義の反動が、種々の形貌を取つて崛起したことに帰すると云ふ看方は、吾が親鸞流行の上にも亦幾分か肖たところがある様に思はれんでもない。現に親鸞は只管信心を鼓吹するもので、念仏の功徳は不可称不可説不可思議であるとし、復別に智慧も必要でなければ、才覚も無用だ、理窟も何もあつたものではない、只義なきを義とすと信知せよと、反復言つて居る程で、それは聖道門一流の叡智を主とし、論証を旨としたものとは、似ても似つかず。その一代の傑作として、真宗々派の本典と崇められてゐる「教行信証」六巻には、まだ華厳天台至乃法相唯識の研究に拠つた学究的面影は髣髴として見えてゐるが、その天真爛漫、些の衒気なく修飾を施さゞる仮名聖教類には、実に親鸞は只是れ一個の純なる信心者といふ態度が歴然と現はれてゐる。即も自分は他の高僧達と異なり、独り親鸞聖人には、斯かる純粋人間味に富んだ仮名聖教のあるのが、今日爾く流行する所以だと、断定したい。それは古の伝教大師や弘法大師にないばかりでなく、親鸞時代に近く先行した覚鐶にも源信にも乃至法然にもない。否日蓮には或はこれに似たものがあつたらう、それにしても親鸞と日蓮とは、全然行方が別で、日蓮はどこ迄も外面的であり、威丈高かであるに似ず、親鸞は徹頭徹尾内面的であり反省的であり、最も恭謙にして常に己を空しくしてゐたものであるところに、屹度注意しなければならぬ。