そこで自分は又稍看方を転じて、親鸞流行の理由を、夫の近頃人口に膾炙せるフロイド一流の夢の新心理から説明しやうと試みたこともある。蓋し親鸞聖人の熱烈なる信仰は、その本は全く彼れが哀心に於てもだえにもだえた、遺る瀬ない思に根ざしてゐると見たいので、自分は先づ這の遺る瀬ない思とは果して何者であるかといふところに、着目したのである。然り、それは言ふ迄もなく煩悩熾盛の態と看て宜しい。業に引かるゝ煩悩熾盛から、それは地獄必定の身だと、常に深く己が身を反省し内省する時に、其処には言ふに言はれない遣る瀬ない思があつて、悶々として奈何ともし難かつたに違ひなからう。而して自分は又這の遺る瀬ない思を、フロイド一流の精神分析学に於ける、リビドと同一視したいのである。リビドは拉丁語で、英語には或はデザイヤ即ち欲望と訳し、或はウイツシ即ち念願とも訳されてゐる様だが、自分は暫くクレーヴイングとしたい。さうすると一層右の遺る瀬ない思に当る様に考へられる。
さて此のリビトは、精神分析学では、無意識の裡に潜在するものとし、それが時々動き出すと、表面の平静なる意識状態を攪拌すること、猶は夫の希臘の神話に於て、タータラスの深淵底に閉ぢ込められた筈の、チタンが時々泣き叫んで、為に大地震動する如き訳である。即ちそれは日常に夢と成つて外に見らるゝもので、勿論其処にはリビドその侭には現はれず、種々と違つた形を取るので、夢判断が必要となつて来るのだが、古来東西諸国に存する夢占などとは固より同日の談でなく、遉に却々精碓な様だから有難い。そこで又精神分析学の方では、夢の構成には四段の順序があるとする。第一は凝集、第二は転置、第三は劇化、而して最後は第二次の仕上げと名づける。夢の夢たるところは、国より劇化戯曲化の一段にあるが、それが夢物語として外に発表せられる際には、早く第二回目の仕上げを経るのだと云つてゐる。
然り而して又今日の無意識心理学から言ふと、凡そ文学と曰ひ、芸術と曰ふものゝ真実根柢は、同じく這のリビドに在り、それを露骨に表現したところに、彫刻はあり、絵画はあり、音楽はあり、乃至詩歌もあれば、小説もあるとする。蓋し従来の文学芸術は総じて意識界の産物であつて、それは主として外界外形の模倣描写を旨とし、偶々幻像的に空想を逞しくするとしても、それは只想像の産物たるに過ぎなかつた。従つて輪廓や色彩などは、比較的判明であつても、概して静的でありて、力乏しく、勢がない。而してそれは到底常に内面的には理性の匡正、外面的には習俗の束縛から脱却することが出来なかつたらしい。
然るに今茲に謂ふところのリビドの方はさうでない。それは元来無意識界のもので、何となく曖昧茫漠である様だが、併し其処には無限の力があつて、奈何ともし難く、所謂遣る瀬ない思で、終には突然躍動することも稀ではない。それが今日の所謂活きた芸術となり文学となるのだが、自分は宗教も亦素より這のリビドに由つて起つてゐるもので、畢竟文学や芸術と同根の分支だと看てゐる。否宗教にも亦両様であつて、意識的なのと無意識的とに別つことが出来る。而して這の区別はやがて聖道門と浄土とのそれに当ると見たいのが、自分の考である。聖道門は前述の通り、元来主知主義だから、理性を本位とし、思惟冥想で以て遣つて行かうとしてゐるが、浄土門は寧ろ情意本位で、それはハルトマンの哲学ではないが、自ら無意識的と成り、終りにはパウルゼンのそれの様に、信仰一本槍と成るのである。
斯くリビトを根本とした親鸞聖人の宗教信仰は、勢ひ現代の表現的象徴的文学芸術の対象となすに、最適当したものであつて、果して現に目撃する如く、こゝ数年来親鸞を主題とした作品は、迫々続出して居り、倉田百三氏の「出家とその弟子」を始めとし、石丸梧平氏の「人間親鸞」あり「受難の親鸞」あり、乃至山中峰太郎氏とか三浦関造氏とか、未だ一々通読はしないが、大小七八種を下るまい。而し既に演劇として板にのせられたものも幾つかある。これは目下親鸞流行の一理由として、格別に有力なものだらうと看たのである。尤も同じ親鸞物でも、例へば旧来の絵伝とか縁起類とかを本として、拵へ上げた活動のソイルムなどは、頗る低級だとして、逸早く排斥されてゐるから溜らない。知らず弘法大師とか、日蓮上人とかの生涯も亦親鸞のそれと同じ意味で、近代的文学芸術の対象となるに適するかどうか。往年一度日蓮上人の非常に流行した時も、それは文壇の異才故高山樗牛が推輓の力に頼つたことは、太だ多い。矢張り文芸の功能だと謂へる。只今日の文学芸術は、復樗牛時代とは自ら面目一変してゐることを思はなければなるまい。