三(そこで話は更に一歩進めて行くが、右述ベた無意識裏)

そこで話は更に一歩進めて行くが、右述ベた無意識裏のリビドは、それは又煎じ詰めると、或は性慾と最親密な関係のあるものになりはしまいか。近時学者往々宗教と性慾と、その根柢に於て素より一なりとし、現に青年男女春情の発動する時期と宗教的に回心する時期とは、略ぼ同じ頃なりと云ふのも亦それである。此の事に就いては、吾が国では別しで文学士田中広吉氏の「信仰を基とせる道徳的陶冶の研究」(大正三年出版」中に、比較的詳細に、統計的事実が収載されてゐる様だ。想ふに所謂遣る瀬なき思の如きも、亦実は全く性慾と最親密に連関し、春情の懊悩と近接してゐるに違ひなからう。人生の無常を観ずるのは、物のあはれを覚え初めるので、それはやがて春情の萠した時だと見られやう。そこで又仏教で毎々煩悩を喋々するのは 啻に性慾の色情癡情のみには限らず、広く貪瞋癡の三に亘ることで、これは全く人間固有の根基的本能と見なければならないが、併しその中でも又別して性慾が主な様で、愛着執着も重に其処にある。妻子珍宝及王位と、矢張り妻子を筆頭に置いてあるところに注意せられたい。

そこで由来仏教では男女の別を、厳しく掟することは、少しも儒教などに讓らず、夙に戎律の上で、それが十分に制定されてゐることは、誰も承知であらう。即ち在家一般の者にも守らせる五戎には、不殺生、不偸盜に次ぎて、第三には不邪淫戎がある。それは看守ある者を犯さざることだと曰つてあるから、密通、姦淫を戎めたのに過ぎないが、同じ在家の戎でも八戎斉の方になると、第三に非梵行とあつて、男女の媾合を戎めてある。十戎の三番目の不淫も亦不犯の義である。然り而して小乗律の具足戎になると、比丘の二百五十戎中、最重罪たる四波羅夷の一つとして、非梵行の婬戎があり、人間・畜生・鬼神等に向つて行ふところの一切の婬行を厳禁し、男は大便処(肛門)及び口の二道、女は大小便処(尿道と腟とを混一するは笑止々々)及び口の三道とある。而して比丘尼の五百戎には、比丘の四波羅夷の外に、尚は特に四波羅夷あつて、それは都合八波羅夷と成るが、比丘尼特別の四波羅夷中の初二は共に婬戎てある。即ち第五は摩触戎と曰つて、婬心を以て男子の身体を摩触するのである。又第六は八事成重戎と曰つて、八項に細分し、執れも婬心あつて、一は男子の手を捉り、二は衣を捉り、三は屏処に入り、四は共に立ち、五は共に語り、六は共に行き、七は身相倚り、八は共に婬処に行くと期すといふので、此の八段を経て男女交接すれば、則も波羅夷と成るとしてある。波羅夷は梵語で、普通には断頭の義に解して居る様だ。

但し元来仏教の婬戎なるものは、必ずしも婦女子を不浄不潔なものとした為でもなく、さりとて又癡情に昏迷して修斐の妨碍となり邪魔となるからと云ふ訳ではなく、寧ろこれは今日社会学者等の口にするタブーの一種で、然かもそれは飽迄男子本位の文化とて、夫の三宝と称へられる仏法僧中の僧宝の神聖を掩護し、他との接触を遮閉せんとするが目的だと見たい。此の事は●に自分は「哲学研究」(大正八年)の上で最詳細に論究して置いた積りである。

何はともあれ、在家の優婆夷・優婆塞の不淫戎は、少々理窟に合はない。現に「アールニカ・ウパニシヤツト」に拠つて見ても、アリア族生活の四期中、第三期なゐ林棲期に於ても、必ずしも単独入山と限らず、随分妻を伴れて行くことも自由に許されてゐたらしい。而して今茲に自分が斯んな事を言ふのは、自分独得の一家言として、釈迦の一生も亦大体上は、這のアリア族の生活四期を、その侭に追随したに過ぎないものと見たいからで、出家入山に左迄の独自的甚深の意義を賦与したくないからである。従つて釈迦とても亦随分妻を其して入山しても差支なかつたのだが、如何せん古来の伝説の如くんば、釈迦には三人或は二人の妻があつた様で、恐らく日頃その煩に堪へかねて、単身逃げ出したものだらうと推測する様な次第である。

即ち「十二遊経」(晋の迦留陀伽訳)に拠れば、第一夫人は瞿夷、第二夫人は耶輪陀羅、第三夫人は鹿野なりとある。従つて其の子羅喉羅の母にも早く二説あつて、或は第一夫人の子とし、或は第二夫人の子とする様で、それぞれ経典の憑るところがある。天台の慈恩はこれを説明して、瞿夷には子なきことは「智度論」で知れる。只第一夫人即ち長母即ち正匕たるより「瑞応経」は之れに繋け、又「未曾有因縁経」の方は実際所生の方に由つて、第二夫人耶輪の子としたのだと云つてゐるのは、或は然らん。それにしても此の羅喉羅、母胎に在ること六年との「仏本行集経」の伝説は、太だ珍である。何となく吾が応神天皇の胎中に長じ玉ひしと似てゐる様だが、それよりも又「雑宝蔵経」に拠れば、何分斯様に六年もしてから生れたので、人々大に之れを怪しんだところから、火坑を作つて、母子を投げ込んだところが、共に恙なかつたので、疑始めて釈けたといふのは、吾が神代紀に於ける本花咲耶媛と彦火々出見尊との伝説と相通じたところがある様で、性慾神話学上から観て、太だ面白いことを一言して置きたい。