比丘尼といふものは素より婆羅門教の方に古くからあり、而してその修行は右述ベた通り一生を四期に区分し、梵行生活・家住生活・林棲生活並に遊行生活としたのを、仏教では之に倣ひながら、梵行生活より一躍して常遊行の生活に人る事としたのは、大相違の点で、即ち彼には妻帯して家庭生活を為し、尚ほ妻を携へて人山林棲して修行することさへ出来たのに、仏教はその機会を奪ふたのは、飽迄世尊中心の教団本位で、人情からは外れてゐやう。従つて仏在世の当時とても、早く其処に破戒無慚の輩が続出したことは、●に学友松本文三郎博士の詳細なる研究が、京都帝国大学文科大学文学会の雑誌「芸文」に掲げられてゐるを見ると分かる。
況して末世になつては、僧風の紊乱は勢、已むを得ないことだと謂はう。印度支那は暫く措き、吾が国にしても「元亨釈書」の第二巻に釈明一と釈慈宝との伝があるが、釈明一は姓は和仁氏、東大寺に居て真教を宣揚す。学者依るもの多し晩年に後房を置いたので、時の人は冷笑して、「簷蔔雖レ凋、尚含二四照之色一。芝蘭半落、亦送二十年之芳一」と云つたさうなが、畢竟手軽な若返り法を実行したものだらう。而して歳七十一に及び、延暦十七年に遷化したといふことである。又釈慈宝は姓は朝戸氏、大和平群の人、元興寺の勝悟に従つて、法相宗を学び、頻にその敏慧を称せられてゐたが、この人も亦晩年に婉閨を設けたので、学者その才を優としつゝ、頗るこれを患ひて、こいつは困つたものだと云ひ囃したとあるが、但し両僧共に別に罰せられなかつた様だ。慈宝は弘仁十年十一月、歳六十二で卒した。伝教と略ぼ同時代で、弘法より稍々先輩だ。
又「古事談」の第三巻には、仁海僧正が肉食をして女犯をした事例が麗々と書かれてゐる。即ち仁海僧正は食鳥の人なりと書き出し、房にゐた僧が容易く雀を捕へたのを、忽ち火に焙つて粥漬の菜に用ひた。又曾て或る女房(女官)と密通してゐたところが、忽ち懐姙して、男子を産んだ。そこで母なる人の曰はれるには、此の侭成長させたらば、誠に耻哂しの事だとて、毒殺の積りで水銀を服用させた。併し幸か不幸か、死なくて生存したが、その中毒で、陰部不完全であり、已むを得ず一生不犯となつたのは、畢竟親の罪が子に報いたものとも見られるが、それが成尊僧都と云つて、仁海僧正の真弟子だとある。然り而して仁海僧正の事は、「さりながら有験の人に坐ばされ、大師(弘法)の御影に違はず」と賛してあるからおかしい。然り「元亨釈書」に徴するに、この人は如何にも密教の泰斗で、博く諸流を兼綜し、而も別に醍醐の附近に於て小野派を開始した。今の随心院はその跡を続いだものである。畏くも勅を奉じて雨乞をしたこと、一生に九度に及んだが、皆効験があつたので、時人は雨僧正と呼んださうな。永承元年五月十六日寂滅、世寿は九十二とは、遉に元気旺盛、思ひ遣られる。
斯様な次第で「古今著聞集」などにも亦色々面白い例がある。但しそれ等は大抵稍古い様だが、「拾遣往生伝」には大法師源順は、吾が娘を妻としてゐたが、然かもめでたく往生を遂げたとある。これは鳥羽天皇の御宇であるらしい。又それよりも少しく後れて、後朱雀天皇の長久年間に出来た「本願法華験記」には、加賀国の尋寂法師や園城寺の僧某は皆妻子を具足してゐたが、然かも「法華経」読誦の功徳に由つて、安々と大往生を遂げたとあるさうな。この書物は自分は未だ手にしないが、凡そ此等の事は、例の文学士長沼賢海氏の有名なる「親鸞聖人論」に、(明治四十三年四月より十二月まで)詳に出てゐた様だ。
斯くて長沼学士は、親鸞聖人の肉食妻帯も必ずしも空前の新事とは謂へず、而して親鸞自身も綽空の名で連署してゐられる法然の七箇条起請文の中の第四条には、念仏には戒行無しと号し、専ら淫酒を勧め、適々律義を守る者は雑行人と名づけ、弥陀の本願を憑まん者は、造悪を恐るる勿れと説くをば、停止すベき事とあり。同じく越後の浄興寺文書には、専修念仏帳文日記事あり、愚禿親鸞聖人より善性聖人集記也と註して、都べて二十一ヶ条ある中に、第十七条には、他人の妻女を留めて犯さんことを懐ふベからず。第十九条には念仏勤行の日には男女同坐すベからず。第二十条には、勤行の日には、魚鳥を並に五辛を食ふベからず。同じく勤行の日には酒狂を留むベしとある。彼れ此に思ひ合せると、当時僧風の頽廃を察知するに余あり、現に夫の官女松蟲鈴蟲の遁世剃髪に因つて、安楽房住蓮房の二僧は死刑に処せられ、師の坊たる法然上人は還俗させて流罪になつたが、その一類には羅と謂って、陰茎截断の刑を課せられたものも相応に多くあつたと聞き及んだが、さすれば畢竟念仏よりも寧ろ女犯を重く罪せられた訳だとは、果してどんなものだらうか?