以上の諸例で、肉食妻帯が必ずしも親鸞に由つて全然新規に創剏せられたものではない事は争ひ難く、従つて真宗の開宗は、夫の本典たる「教行信証」の撰述成就した歳よりせず、寧ろ親鸞が玉日の宮と結婚した時より起算するが好いなどといふ議論も、今度京都本派本願寺内龍谷会より出版の「立教開宗」と題する諸家の論文集中に、誰からか発せられてゐた様に見受けるが、併し今日の一史研究では、玉日の宮などは全然架空の一幻像で、実在した者ではないことになつてゐるから溜らない。凡そ玉日の宮抹殺には、早く前掲の長沼学士も、余程骨を折つた様で、種々考証せられてゐるが、近頃に及んでは、本派本願寺の執行所に勤仕して居られる鷲尾教導師は一層熱心で、単刀直人これに止めを刺すと共に、一面には図らず、本願寺の庫中より一綴りの古消息文を、都合好く発見し出し、是れに由つて追々親鸞聖人の妻女たる恵信尼は、素、越後の産であると云つて、略ぼその郷貫も明になつて来た様で、驚く勿れ、本願寺の官報とも謂ふベき「教海一瀾」の紙上にも、特に一欄を割して、鷲尾師の今度の発見を喜ぶ様に書いてあつた。その詳細は固より本論文の範囲外であるが、何はともあれ自分は親鸞には終始只一人の妻があつたばかりとは思へない。現に右の越後の女には、確に数人の子女があつた様だが、長子の善鸞はどうもその腹からではないらしく、その永く勘当されて仕舞つたのも、色色親子間に込み入つた事情があつたらうと想像する。蓋しこれは後年本願寺三代の宗主覚如と、その長子存覚との不和からも類推するに難くないところである。
それにしても自分は本書が「現代宗教と性慾」たる上から観ても、夫の六角堂観音の夢告としての四句の偈文は、今尚ほ常に非常に興味を以て黙読し徴吟することを止め難い。曰はく、
「行者宿報設女犯、我成玉女身被犯、一生之間能荘厳、臨終引導生極楽」といふので、実は古来訓読は忌み憚つてゐる様だが、今試に翻訳して見やうならば、行者!そちが前世の宿業の報いで、女を犯すといふなら、私が玉女の身と成つて、犯されてあげやう。そして一生の間伴れ添うて、十分世話してあげ、やがて臨終の際には、極楽へ案内してあげやうといふので、却々お安くない。併し玉女と謂ふのは、玉の様な麗はしい美女の義で、古来先例もあると、長沼学士は言つて居られる。仏教の経典は知らず、漢籍では「礼記」の祭統篇に、他家の令嬢といふところをば、玉女と書いてあるのを見たことがある。同学士は又専修寺四代目の専空の作つた聖徳太子の伝記の中に、太子左右の乳母となすベしとて、百人の美女の中より三人を撰ばれたが、各各天女玉女の如くであつたから、光の徳に依つてその名を月盆姫・日増姫・玉照姫としたとある。右の偈文は或は真宗で格別尊信するところであり、而かも六角堂の開基と崇め奉る聖徳太子の事だから、そんな所に因縁を附けて、玉日の宮の名は出来たのかも知れないと云つてゐられるのも而白い。併し下世話では、女そのものを玉と呼ぶ様で、娼妓の玉代とか、雛妓の半玉などいふこともある。性慾学の上では、或は玉を婦人陰部の象徴とするらしくもあり、玉門の語さへあるから妙だ。
然り而して今茲に特に注意すベき事は、親鸞は常住不断に、頻に煩悩熾盛の身と言はれて、性慾痴情の懊悩たる、遣る瀬なき思のリビドを、少しも隠蔽せられなかつたばかりでなく、又他の一面には珍らしく、その本典たる「教行信証」などの中には、一ヶ所も婦人を悪く言つて軽侮した辞の見えてゐない点である。抑々夫の誰もよく口にする五障三従の事は、元来「法華経」の提婆品に出てゐるのである。而してそれは確に仏教以前よりの伝統的思想であることは、第一に梵天たること能はずとか、帝釈たること能はずとかいふのでも、想察するに難くない様だが、余宗は勿論、真宗でも亦後年に至つて、本願寺中興の宗主蓮如の「御文章」の五帖目には、特に頻繁に言つて居られるので、世人は動もすれば親鸞も亦已に然りと思つて居る様だがそれは大違ひであらう。
斯様な次第で、親鸞は主知主義でなく、情意本位、信仰本位で、而かも其処に神秘的色彩の靉靆たるところは、確に現代の思潮に合する様であり、将又人間味を旨とし、人情を深く掬愛するところから、些り衒気なく修飾なく、御同行御同胞として、誰とでも一所に泣く人の様であり、自身は常に反省省察して内面に熕悩の熾盛を意識しつゝ、敢てそれを排除し抑圧しやうとはせず、その身その侭で、只管弥陀大悲の本願に縋り、深く信心し、自ら念仏して、摂取不捨の利益を被り、正定聚不退転の位に居ると、衷心歓喜愉悦の心もあり、妻を娶り、子を儲け、肉を食ベ、酒も多少は飲まれたらう。何等聖者振り、師匠振つて、豪らさうがらず、純なるデモクラシーで、而してその根本は性慾と一体たるリビドの遣る瀬ない思を懐いて暮らされたとすれば、それは現代の文学芸術の好対象たるに適し、従つて左様に汎く流行するのも、亦無理はないと考へられる。