枯木寒鴉の名句を拈じ出したる俳祖蕉翁にも、恋愛の至情遣る瀬ないものがあつたことは、今更裸々を待つまい。観鸞聖人が七百年の昔、率先妻帯せられたことは、ルーテルをして後に矇若たらしむるに足らう。小乗阿羅漢はあかん。大乗の菩薩も亦持戒堅固を誇る間は話せない。況んや末世の俗和尚、表裏反覆、醜態続出をや。宗教家面するのもすさまじい。但し斯様に申したからとて、又夫の或る神道者流の様に、荒淫放縦何等検束する所なく、霊的元素が乏しくては困る。古伝に拠ると大己貴命などは、蓋し一夫多妻の魁の様である、それも国土経営、民衆繁殖上必要であつた為だと云はゞ、吾復何をか申さんやである。
それについて自分は墺国新進の作家エミル・ルカの快著「エロス」をこの頃故あつて稍々精読して見たが、如何にも尤だと首肯される様だ。該書は英訳がゐり、尚且つ吾が国でも文明協会の手でそれを重訳して昨秋出版して居るやうだから、誰でも容易く手に入れられやう。而して邦訳者はその表題を「恋愛の進化」と附けたのは、大に宜しきを得て居る。と云ふのは該書は元来古今愛情の漸く変易し向上して行く有様を説いたものであるからである。即ち著者はそれを三段に分ち、第一段は性的本能を専とした時で、希臘の古代は恰も之れに当る。第二段は恋愛の浄化せられ神秘化され行く時で、それはトロバドアの詩人に始まり、ダンテのベアトリツェに於ける、ゲーテのグレツチェンに於けるは、執もその代表的のものである。ミケル・アンジェロやベートフェンにも亦恰好の事例は多々あるとする。斯くして終に恋愛は形而上的のものに成り過ぎて仕舞ひつゝあつたが、それは固より極端に奔つたもので決して正道でない。そこで第三段に入つて始めて性的本能と恋愛との一致が高調せられ、霊肉和合が尚ばれる様に成つて来る。これは第十八世紀に於けるルツソーの傑作の一たる「新エロイス」に負ふ所が多い。尤も現今の状態は、又往々変態に陥つて、何とも手に合ひかねるものがある。これはどこ迄も変 態であつて、正道でないことを明にせねばならない。若しルッソーの外にはどんなものがあると尋ねるならば、それは例へばゲーテの「ウェルテル」がある。両者共に浪漫的で、而かも情操の上より霊肉和合を求めたのである。之れに反してシュレーゲルなどは、その名著「ルシシダ」に於て、動もすれば理に偏する嫌がある。シヨツペンハウルなども亦その亜流で、それは同じ霊肉一致論でも、哲学的であり形而上学的である。従つてその性的牽引説などは、徒に種族保存を喋々して、未だ真純の個人化されたる人格的恋愛に至つてるない。所謂真の霊肉和合は精神的恋愛と肉感的衝動とが、唯一不二の形で、其処に恋人相互の抱擁がある所に存するので あると云つて居る。